広域のニュース

<奥羽の義 戊辰150年>(11)全面戦争を間一髪で回避

夜、土湯峠付近(福島市)から北へ吾妻連峰を望む。仙台、会津の両藩は山中のこの地で衝突、戦闘は夕暮れまで続いたという。遠く右奥で光るのは福島盆地の街明かり

◎第2部 悩める大藩仙台/会津出兵

 福島市土湯は1000年余の歴史を誇る山あいの温泉地で、仙台、会津若松両市の中間に位置する。1868(慶応4)年旧暦4月18日、仙台藩と会津藩はこの地で、全面戦争に発展しかねない武力衝突の危機に直面した。

 会津軍は8月2日に土湯を退却する際、集落に火を放った。迫り来る新政府軍に拠点化されるのを恐れたためで、73戸中71戸が焼けるなど全村が焦土と化した。
 「敵が温泉で英気を養っては困るとでも思ったのでしょうか」と土湯温泉観光協会の池田和也事務局長(60)。「戦争の巻き添えになるのは常に庶民。戊辰の戦火から復興して今の土湯温泉がある」と、先人の苦労をしのんだ。

 明治新政府の奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府が仙台藩に会津追討の即時実行をしつこく要求してくるため、藩主伊達慶邦(よしくに)はやむなく出兵した。自ら5000余人を率いて会津藩境へ錦旗を掲げて進軍し、本陣を白石城に置いた。
 ただ、それは形だけで、水面下では会津藩との和平交渉が進んでいた。出兵は総督府の顔を立てると同時に会津藩に早く謝罪恭順するよう圧力をかける狙いがあったようだ。
 仙台軍瀬上主膳(せのうえしゅぜん)の隊は土湯峠の鬼面山(1482メートル)中腹に布陣した。雪の残る険しい山岳地帯を分け入り、関門を守る会津軍一柳四郎左衛門の隊と向き合った。
 瀬上は配下の姉歯武之進を使者として一柳の元に送り、敵対するのは本意でないと伝えた。事を構えたくないのは会津側も同じ。督戦する総督府の目を欺くため「お互い空砲を撃ち合おう」と約束した。
 しかし、不測の事態が起きる。新政府から参加し、事情を知らない福岡藩軍が実弾射撃を始めたのだ。一柳隊は約束を守り空砲で応戦したが、相手が実弾と分かると猛反撃してきた。「だまされた」とさぞ怒ったことだろう。砲声が峠にこだまし、戦いは夕刻まで及んだ。
 「即刻戦闘をやめよ」。鶴ケ城に交渉使節として派遣中だった仙台藩士横田官平が会津領側から仲裁に駆け付け、間一髪で事態を収拾した。和平工作が水泡に帰すところで、仙台藩はばつが悪かった。

[仙台藩の会津出兵]青葉城で古式にのっとって出陣式をした後、白石領主片倉小十郎の兵2000を先頭に、錦旗2本を掲げて会津藩境に出兵した。仙台藩の出陣は大坂夏の陣(1615年)以来約250年ぶり。土湯峠のほか、御霊櫃峠、中山峠、石筵(いずれも現在の郡山市)、岳(二本松市)などに部隊を配置し、守備する会津藩兵との間で小競り合いが生じた。奥羽鎮撫総督府の総督九条道孝や下参謀世良修蔵らは岩沼に本営を置き、各地を督戦して回った。

会津藩境に向けて出陣する仙台藩兵の様子を記した木版画。洋式軍装の兵も描かれている(仙台市博物館所蔵)

2018年07月01日日曜日


先頭に戻る