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<全国高校野球100回 宮城の白球史>(4)1973〜97年 東北目標 仙台育英が台頭

1978年夏の第60回全国高校野球選手権2回戦、所沢商(埼玉)を相手に力投する仙台育英の大久保投手
氏家 規夫さん

 春夏の甲子園は計38の出場を数え、3度の準優勝を誇る仙台育英。東北と比べると、甲子園の常連校になったのは意外と遅い。1973(昭和48)年、OBの氏家(旧姓金沢)規夫さん(72)=東京都=が監督に就任してからだ。

<初の甲子園>
 「選手の頃から東北には負けたくなかった。私が仙台育英の監督を務めていた11年間、夏の宮城大会決勝は東北と6度対戦し、4勝2敗で勝ち越している」と誇らしげに言う。
 氏家さんは仙台二の受験に失敗し、東北の松尾勝栄監督には「体が小さい」と断られ、仙台育英に進んだ。好守の二塁手として活躍し、菅田誠監督の下、2年生だった63(昭和38)年夏、仙台育英の甲子園初出場に貢献。3年生の夏も主将として連続出場した。
 亜大を経て、菅田監督の後継として26歳で指揮を執り、1年目から夏の甲子園出場を果たした。
 苦労したのは選手集め。「仙台市内の中学生は東北に行きたがった。そこで私は塩釜、七ケ浜など海沿いを勧誘に歩いた」。厳しい練習に耐えられる選手が多く、「地元の指導者も仙台の子が集まる東北に負けるなと応援してくれた」。

<2強時代へ>
 宮城県沖地震があった78(昭和53)年、塩釜市出身の大久保美智男投手(後に広島)を擁し、夏の甲子園で2勝した。1回戦、高松商(香川)と延長十七回の甲子園史に残る投手戦を繰り広げ、1−0でサヨナラ勝ちした。氏家さんは「『どっちが四国でどっちが東北か分からない』と野球のレベルを評価してもらった」と感慨深げに語る。
 東北との宮城球場の決勝は特別な雰囲気だった。「球場が本当に二分された。東北に勝たないと甲子園に行けないし、勝てば全国でも通用する。選手も自然に燃えた」。ライバルを目標に私立2強時代を築いた。
 83(昭和58)年に辞任。その後、東陵の監督に就き、88(昭和63)年夏の甲子園に出場した。「私は縦じまを倒そうとやってきた。縦じまは着られない」。東北と同じ縦じまだった東陵のユニホームを変更し、仙台育英時代のユニホームと同じアイボリー色にした。


<宮城の高校球史主な出来事>
1976年(昭和51年)夏の甲子園はこの年から宮城は1県1代表に。東北が夏の甲子園ベスト8
 78年(53年)   東北が春の選抜ベスト8。仙台育英が夏の甲子園で初勝利
 79年(54年)   宮城大会決勝が3年連続で東北―仙台育英に
 80年(55年)   東北が春の選抜ベスト8
 85年(60年)   東北が春の選抜ベスト8。夏の甲子園でもベスト8。佐々木主浩投手ら活躍
 88年(63年)   東陵が夏の甲子園初出場
 89年(平成元年)  仙台育英が春の選抜ベスト8。夏の甲子園では準優勝。大越基投手ら活躍
 94年(6年)    仙台育英が夏の甲子園ベスト8


2018年07月03日火曜日


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