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<仙台空襲>わめき、叫び、火の手は真昼のごとく… 青年教師がつづった日記とスケッチ発見

堤通から宮城県庁付近を描いたとみられる7月15日の日記
仙台駅の焼失状況を描いた7月17日のスケッチ。「三番ホーム残してすべてなし」と書かれている

 約1400人が犠牲になった1945年の仙台空襲から10日で73年になった。仙台市内の小学校教員だった故村田幸造さん(96年に81歳で死去)が空襲の惨状をつづった日記が、太白区の自宅で見つかった。29歳で体験した夜間爆撃の恐怖、焼け野原で抱いた絶望感、再出発への決意を墨筆による素朴なスケッチとともに記している。
 空襲に関する記述は45年7月9日、米軍機が近づいているとの情報から始まる。村田さんは午後11時50分ごろ、花京院(青葉区)近くの自宅から勤務先の通町国民学校(現通町小)に急いだ。

 <「学校に行かんと外に出た途端、重苦しいB29特有の爆音聞(く)。力走りにて、錦丁(にしきちょう)角を曲がらんとした時、すでに仙台市の中央部、および我が通り行く手とおぼしき辺りはすさまじい火災。これはいかんと宮町を通過して職場に駆け付けようと戻る」>

 10日午前0時15分ごろ、市内は阿鼻(あび)叫喚のちまたと化す。

 <「B29百機、エンジンの響き、高射砲のとどろき、照明弾の炸(さく)裂、逃れる人のうずき、わめき、叫び、爆弾の破裂。火の手は真昼のごとく、火柱となり旋風を伴いつつ、怪しげなる光を発しつつ、やがて火流となりうずまきとなって燃え狂った」>

 仙台空襲は米軍のB29100機以上が1万発以上の焼夷(しょうい)弾を落とし、5万人以上が被災したとされる。

 <「何たる惨。仙台は茫々(ぼうぼう)たる焼土と化した。一物も残さず、焼けただれた人の群れ、逃げ遅れて焼死せる屍(しかばね)、家を焼かれてさまよう人々、肉親を叫び求める声」>

 人々の規律ある行動、なえない戦闘心をたたえる。戦争がまだ終わっていない段階で、復興を誓った。

 <「かくも凄惨(せいさん)なる事件にもかかわらず、人々の静かな振る舞い、秩序ある行動、顔に溢(あふ)れる激しい敵がい心と敢斗精神の旺盛さ。かくして美しい故郷の街々は灰燼(かいじん)に帰した。やがて再建の日を待つのみである」>

 終戦の8月15日。筆致は一変する。

<驚愕!!呆然!!自失!!悲憤!!切歯!!慟哭!!煩悶!!承詔必謹!!感涙!!決意!!>

 日記を見つけた次男拓さん(63)は「敗戦の悔しさ、将来への展望など複雑な心境だったのだろう」と推し量る。
 拓さんは父から戦争の話をほとんど聞いたことがなかった。日記は断続的に付けられ、45年は空襲から終戦翌日までしか書かれていない。拓さんは「空襲という出来事を残さなければいけないという父の強い思いを感じた」と語る。


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2018年07月10日火曜日


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