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<奥羽の義 戊辰150年>(12)会津藩、謝罪恭順受け入れ

仙台、米沢と会津の関宿会談に、地元の肝煎として協力した安藤家。堂々としたかやぶきの屋敷が、かつての街道沿いに残る。七ケ宿の街道は奥州と羽州を結び、手前(東)が白石方向。奥の峠を越えると上山や米沢に通じ、今も多くの人や物資が往来する=宮城県七ケ宿町の国道113号
関宿会談の出席者の名前が記された「会津御追討方御用永留」

◎第2部 悩める大藩仙台/関宿会談

 宮城県七ケ宿町は白石と米沢、会津若松方面をつなぐ要所で、奥羽諸大名の参勤交代の宿場町として古くから栄えた。

 1868(慶応4)年旧暦4月29日、この地の関宿本陣(渡部家)に仙台、米沢、会津3藩の代表が会津救済策を話し合うために集まった。藩境の関宿が密談場所に選ばれたのは、「敵国の会津藩士と領内で会っては形式上まずい」との意見が仙台側から出たためだ。

 議題は会津藩が新政府に謝罪恭順する条件。会津藩は京都守護職として朝廷を守った自負があり、一方的に朝敵扱いされるのは心外との立場だった。条件次第では薩長と対決も辞さずという強硬な姿勢だった。

 当然、交渉は緊迫したものとなった。仙台藩首席奉行但木土佐と会津藩首席家老の梶原平馬の実務トップ2人が問答で火花を散らした。

 但木は謝罪恭順の条件として藩主松平容保(かたもり)の城外謹慎と領地削減、重臣の首を差し出すよう求めた。梶原は「重臣の多くは鳥羽・伏見の戦いで死んだ。残った者まで処分すれば藩内が動揺する」と難色を示した。

 重臣の処分を受け入れないことを、但木は「奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府は許さないだろう」と切って捨てた。梶原は沈黙した後「ならば一国皆死で戦うのみ」と答えた。

 「重臣の首と会津一国、どちらが大事なのか。無理なら帰って軍備を整えよ。次は戦場で相まみえよう」。仙台側の最後通告ともいえる一言で、梶原はついに条件をのんだ。

 後日、謝罪文を持参して再び関宿を訪れた梶原に、但木は「誠意は必ず届くはず。これでも総督府が謝罪を拒否し、暴挙に及ぶなら、われらも共に戦う」と腹を固めた。

 七ケ宿町水と歴史の館は、会談出席者23人を記した古文書「会津御追討方御用永留」を所蔵している。関宿の隣、滑津宿の肝煎検断・本陣だった安藤家から寄託を受けた。「食料や布団を提供せよ」と藩の指示も記され、宿場町が一行の受け入れに大慌てした様子がうかがえる。

 高橋正雄館長(65)は「関宿会談は後の奥羽越列藩同盟結成につながる重要な出来事。七ケ宿の歴史を伝える貴重な資料だ」と語る。

[関宿会談の出席者]宮城県七ケ宿町水と歴史の館が所蔵する「会津御追討方御用永留」の記録によると、仙台藩から但木土佐、坂英力、真田喜平太、若生文十郎ら8人、米沢藩から竹俣美作、木滑要人、片山仁一郎ら7人、会津藩から梶原平馬ら3人が出席。このほか二本松藩から3人、相馬藩からも2人が出席している。「復古記」(1889年)や「仙台戊辰史」(1911年)には、会津藩士は5人の名が記されている。


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2018年07月15日日曜日


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