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<阿武隈川物語>(11)開拓者支えた水がめ

イネの生育具合を確認する浅井さん。70年前に父と開墾した水田を守り続ける
山脈を越えた矢吹が原に水を送る羽鳥ダム

◎第2部 耕土(5完)疎水

 「生きているうちは、どんなことがあっても農業を続ける」。福島県矢吹町東郷の農業浅井俊昭さん(79)は、約2ヘクタールの水田で米作りにいそしむ。約70年前に父の代から開墾し、手塩にかけた田んぼを荒らすわけにいかない。

<日本三大開拓地>
 阿武隈川西岸の矢吹町は戦後、国による開拓が進められ、周辺市町村を含めて計約1500ヘクタールが開墾された。十和田市、宮崎県川南町とともに日本三大開拓地とされる。
 浅井さんの父は東京でネクタイ製造業を営んでいたが、東京大空襲で焼け出された。母の実家の福島県天栄村羽鳥に疎開したが、羽鳥疎水の要である羽鳥ダムの建設が予定されており、移転補償地を与えられた矢吹が原の開拓に入った。
 7人兄弟姉妹の長男の浅井さんは中学卒業後、農業経験のない父を手伝った。田んぼをならすのに、むしろをたたんだ「かます」に土を盛って運んだ。樹木を伐採し、くわで大地を切り開いた。毎朝、農耕馬の餌の草を刈って背負った。
 田植えと稲刈り後は2〜3カ月、出稼ぎに行き、妹3人の学費を稼いだ。浅井さんは「我慢強く、あきらめないのが開拓精神だ」と淡々と話す。羽鳥から一緒に48戸が入植したが、開拓がうまく行かずに、半数が入れ替わったという。

<構想80年で完成>
 開拓の最大の課題が水だった。矢吹が原の大半は台地で、低地を流れる阿武隈川の水を利用できなかった。昔から水争いが絶えず、飢えに苦しんだ。
 明治時代の庄屋の次男の星吉右衛門が1885年、日本海側に注ぐ鶴沼川を羽鳥でせき止めて水を引く「西水東流構想」の建白書を県に提出したが、「狂気の沙汰」と扱われた。構想は昭和初期に着手されるが、戦争で中断。約80年の時を経て、羽鳥疎水が日の目を見た。
 「母の故郷でもある羽鳥は、命の水がめ」と目を細める浅井さん。春に疎水の水が流れ出すと、夜も代かきをする。水持ちをよくするためだ。「とにかく羽鳥の水は貴重で、大切にしないといけない」
 2011年3月の東日本大震災で疎水のパイプラインが破損し、流域は1年、耕作ができなかった。東京電力福島第1原発事故による福島県産の農作物への風評被害は、今も根強い。
 疎水を管理する矢吹原土地改良区の鈴木哲男専務(69)は「震災直後、『羽鳥の水は大丈夫か』というのが町の最大の関心事だった。矢吹の生産者は開拓精神を受け継いでいる。風評被害との闘いを乗り切っていく」と力を込めた。(角田支局・会田正宣)

[羽鳥疎水]阿賀川水系の鶴沼川をせき止めた羽鳥ダム(福島県天栄村)から、トンネルで白河市の隈戸川に水を流し、日和田頭首工から取水する。受益面積は矢吹町や鏡石町など約3200ヘクタール。1941年に着手され、羽鳥ダム完成(55年)などを経て64年まで整備が進められた。


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2018年07月21日土曜日


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