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<奥羽の義 戊辰150年>(14)新政府との衝突不可避に

阿武隈川の程近くに建つ長楽寺。滞在していた宿から連行された世良修蔵は、本堂裏手のこの竹林辺りで斬殺された、と長楽寺では言い伝えられている=福島市舟場町
明治になって建てられた世良修蔵の墓。削られた右の行の中央部分の文字は「為賊」。「賊」である奥羽諸藩のために殺された、と記されていた=白石市の陣場山

◎第2部 悩める大藩仙台/世良修蔵暗殺

 1868(慶応4)年閏(うるう)4月20日。奥羽列藩同盟による会津藩救済の嘆願を却下した黒幕とみられた奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府の下参謀世良修蔵(長州藩士)が、暗殺された。
 きっかけは同僚の大山格之助(薩摩藩士)に宛てた世良の密書が、福島藩を通じて仙台藩に漏れたことだった。「嘆願を認めれば奥羽はいずれ朝廷のためにならない存在となる。奥羽は皆敵と見て逆撃の大策を講じよう」などと書いてあった。
 姉歯武之進ら仙台藩士と福島藩士計十数人が深夜、福島の旅籠( はたご )「金沢屋」に滞在していた世良の寝込みを襲撃。重傷を負った世良は尋問後、阿武隈川のほとりで斬首された。
 「斬首場所は境内の竹やぶ辺りと祖母に聞いた」と福島市舟場町にある長楽寺の中野重孝住職(66)。寺は今も世良を供養する。「なぜ、あんな男を弔うのかと言われる。でも、(同盟の)敵であっても等しく慰霊するのが宗教者の務め」
 傍若無人に振る舞った世良は東北では悪評が高い。後年白石市に改葬された世良の墓は、碑文から「為賊(ぞくのため)」の2文字が何者かに削り取られた跡がある。世良を斬ったのは賊にあらず、との反感が理由とされる。
 世良は奇兵隊出身の優秀な人物だったとの評価もある。なぜ、奥羽を侮辱する態度を取ったのか。
 中野住職は「手勢わずか数百人の総督府が大藩仙台を動かすには官軍の威光で虚勢を張るしかなかったのでは。周りに味方もおらず心細さ、焦りもあっただろう」と推察する。
 福島市史編纂(へんさん)室の守谷早苗さん(66)は、何としても戦争を仕掛けたい新政府の意向が背景にあったとみる。「世良の役割は奥羽諸藩を挑発することだった。薩摩藩が江戸で騒乱を起こし、幕府に鳥羽・伏見を開戦させたのと同じやり方」と語る。
 怒りにまかせた殺害か、あるいは和平の障害を排除するための計画的暗殺か。見方は諸説ある。世良がどのような男であれ、新政府の正使を惨殺したのは宣戦布告に等しい。列藩同盟は戦争への後戻りできない道を自ら歩みだしてしまった。(文・酒井原雄平/写真・鹿野 智裕)

[世良修蔵]1835年、周防国大島(現山口県周防大島町)で庄屋の三男として誕生。長州藩校明倫館や、国防論を唱えた地元の尊王攘夷派の僧月性(げっしょう)の私塾に学ぶ。江戸で儒学者安井息軒の三計塾に学び塾長代理を務めた後、奇兵隊に入り頭角を現す。第二奇兵隊創設時には軍監となる。幕府の第2次長州討伐軍を大島口で破ったほか、鳥羽・伏見の戦いにも参加した。奥羽鎮撫総督府下参謀の長州藩士は当初、品川弥二郎が任命されたが、出発直前に組織変更があり、代わって世良が仙台に赴いた。


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2018年07月29日日曜日


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