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<災禍を超えて>戦後73年目の夏(上)非核化実現 願いは一つ/星埜惇さん(90)福島市

広島での被爆体験を基に「戦争は人間性を失わせます」と強調する星埜さん

 太平洋戦争の砲撃や原爆を生き抜き、東日本大震災で古里を襲う津波や原発事故に遭遇した。二つの災禍を乗り越え、壮絶で非情な体験を今に伝える。戦後73年目の夏。福島、宮城、岩手の3人が語り継ぐ。

◎人間性失われ

 <旧制広島高の1年生だった17歳の夏、米軍が広島市に原爆を投下した>
 1945年8月6日の朝、食糧を調達するため広島市東部にあった寮から広島県呉市の実家に鉄道で向かいました。その途中、原爆が落とされたのです。広島の方向に、気持ち悪いピンク色のキノコ雲がもくもくと立ち上がっているのを目撃しました。とても不吉な思いに駆られました。
 鉄道と徒歩で何とか爆心地から約5キロ離れた寮に戻り、翌朝から行方不明の友人たちを探しました。
 広島は本当の荒野でした。鉄筋コンクリートの建物がぽつりぽつりと残っているだけ。中心部の川は遺体でほぼ埋め尽くされ、目をつぶって橋を渡り過ぎるしかありませんでした。
 夕方に市内で倒れていた友人2人を見つけました。軍のトラックで寮に向かう途中、1人が亡くなりました。もう1人はひどいやけどで唇も炭化しており、薬の代わりにごま油を患部に塗ってやりましたが、助かりませんでした。
 <廃虚と化した街で想像を絶する作業に従事した>
 私たち高校生の役割は、負傷者の看護と犠牲者の火葬でした。穴を掘って遺体を入れ、バケツ1杯ほどの重油をかけて火を付ける作業を繰り返しました。遺体を見ても何とも思わないほど、頭の中がまったく無感動になりました。戦争は人間性を失わせるのです。
 8月25日まで広島市で作業し、実家に帰った途端に倒れ、1カ月間寝込みました。被爆の影響でした。原爆の閃光(せんこう)を列車の窓から目にし、30代で左目が白内障になりました。

◎世界に訴えを

 <終戦後、縁があって福島市に移り住み、被爆者団体の活動に力を入れた>
 大学で農業経済学を学んだ後、51年に福島大に助手として採用され、40年以上にわたって研究や教育に携わりました。92年から3年間は学長も務めました。
 同じ福島大教員で広島出身だった友人と85年、休眠状態だった福島県原爆被害者協議会を再建しました。昨年6月まで事務局長を務め、学校などで被爆体験を語る活動を続けました。

 <東京電力福島第1原発事故で、住み慣れた「古里」が未曽有の原子力災害に見舞われた>
 事故後、一時的に首都圏に避難した協議会の会員もおり、心が痛みました。政府は原発を使い続ける気のようですが、果たして福島の事故を反省しているのでしょうか。原子力は人間が制御できるものではないと思います。福島県内に限らず、ほかの原発も早く廃炉にしたほうがいい。
 世界に目を向ければ核兵器の問題はまだまだ深刻です。被爆国の政府こそ、きちんと外国に非核化を訴えてほしい。日本政府は、国民と一緒にもっとよく考える必要があるのではないでしょうか。(聞き手は報道部・小沢邦嘉)


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2018年08月14日火曜日


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