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旧海軍施設に9歳で奉仕 仙台の牧師、厳格な教諭の涙にいたわり学んだ75年前の夏

建設工事に動員された神町飛行場(現山形空港)近くで、75年前の夏を回想する八鍬さん=山形県東根市
神町飛行場の建設工事に従事する天童町国民学校の児童たち(天童中部小100周年記念誌「天小100年のあゆみ」より)

 75年前、旧海軍の練習施設「神町飛行場」(山形県東根市)の整備工事に駆り出されていた男性には、今も忘れられない光景がある。9歳の夏、いつもは厳しい軍事教練の教諭が、過酷な作業に「もう駄目だ」とべそをかく同級生を見詰め、ただ泣いていた。戦況の悪化は子どもたちをも容赦なく総動員の渦に巻き込んだ。炎天下の記憶は、戦争の理不尽と人の心の優しさを少年の胸に刻んだ。

 仙台市泉区の牧師、八鍬輝隆さん(84)。当時、国鉄職員だった父親が天童駅勤務だったことから、天童町国民学校(現天童市天童中部小)に通っていた。
 神町飛行場は、旧海軍が1942年に着工。練習機「赤とんぼ」が山形市で製造されていたことなどから、東根市への整備が計画されたとみられる。戦後、進駐軍による接収を経て現在は山形空港となっている。
 勤労奉仕に動員されたのは43年の夏。約1カ月間、学校で朝礼が終わると軍事教練担当の教諭に従って約7キロを歩き、現場に着くともっこを担いで整地用の土砂の運搬に当たった。
 軍事教練担当は「須藤先生」という30歳前後の男性。子どもたちに自前の「精神棒」を作らせ、衣服にくくり付けて生活するよう命じていた。「自分が怠けていると思ったら、棒で自分をたたきなさい」という指導だった。隊列を組んで歩く行き帰りも、ふらつきながらもっこを担ぐときも、子どもたちの腰には精神棒が揺れていた。
 ある日、疲労と空腹に耐えかね、同級生の「ユウタ」が泣きだした。酒田から転校してきたばかりで「あののぉ、俺(おら)もう駄目でのぉ」と庄内地方のなまりでべそをかいていた。傍らの須藤先生は、そんなユウタを見ながら、精神棒で自分をたたきなさいと命じることもなく、ただ泣いていた。
 「10歳足らずの子にこんな苦しい仕事を強いるのがいかに理不尽なことか、先生が一番分かっていたのだろう」と八鍬さん。「精神棒を作らせたこと自体が子どもへの思いやりで、国に対する一種の反逆だったかもしれない」と回想する。
 体罰が珍しくない時代、須藤先生は生粋の軍国主義者でありながら、決して子どもに手を上げることはなかった。
 70年以上続く平和の時代。八鍬さんは中高生のいじめ自殺や障害者殺傷事件などのニュースを目にする度に、やり場のない怒りと悲しみがこみ上げるという。
 「人をいたわる気持ちの尊さ」。須藤先生の涙に教えられたことが現代に伝われば、と願っている。


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2018年08月15日水曜日


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