宮城のニュース

<特攻の澱>戦後73年目の夏に(上)亡き戦友思い胸うずく

熊谷陸軍飛行学校時代のノートを手にする八巻さん=仙台市青葉区
知覧飛行場に移る直前の八巻さん(前列右端)ら神鷲125隊の隊員=1945年7月末、千葉県印西市の印旛飛行場

 太平洋戦争末期、本土決戦の盾として南の地へと送られた元少年兵たち。死と隣り合わせの「特攻」に向き合い、記憶は心の澱(おり)となって残り続ける。終戦から73年。人生の終盤を迎え、重い口から漏れだした言葉を紡ぐ。

◎元特攻隊員 八巻巌さん(92)(仙台市青葉区)

<激突まで十数秒>
 標的の戦艦に体当たりする直前、操縦かんを押して機体を急降下させる。激突までは十数秒だ。
 「死の恐怖と戦い、必死で操縦かんを押さえつけたはずだ。最期に何を叫びながら散ったのだろう」
 終戦までの約半年間、特別攻撃隊「神鷲(しんしゅう)125隊」に所属した仙台市青葉区の無職八巻巌さん(92)は、今も胸がうずく。
 宮城県大郷町で、3人きょうだいの長男として生まれた。「天皇陛下、国や郷土のため立派な兵隊になることが最高の仕事だ」。教師の言葉に疑問は感じなかった。
 1942年4月、15歳で東京陸軍航空学校(東京)に進み、熊谷陸軍飛行学校(埼玉県)などで2年間、パイロットの養成教育を受けた。繰り返し聞かされた訓示は「兵は天皇、国のために死ぬ」。自分もそのつもりでいた。
 沖縄戦が始まる直前の45年3月1日、陸軍飛行第23戦隊への転属を命じられた。「特別攻撃隊の要員になった。その教育を受けよ」と上官。戦後の映画で「特攻志願者は一歩前へ」と意志を確かめる場面があるが、それは映画の中だけの話だ。

<故障で引き返す>
 23戦隊本部の印旛飛行場(千葉県)に移り、神鷲125隊に配属された。飛行場に描かれた英米戦艦の図に向かって急降下する訓練を重ねた。
 いつ出撃命令が出てもおかしくない状況になると、「天皇陛下のために死ぬ気になれない」との思いがこみ上げてきた。信頼する戦友に打ち明けると「同じ気持ちだ」と言われた。「親やきょうだい、郷土を守るために戦って死のう」。自分なりに納得できる結論を出して心を静めた。
 45年7月末、特攻隊の拠点の知覧飛行場(鹿児島県)への移動命令が出た。別れの水杯を交わし、愛機の戦闘機「隼(はやぶさ)」を離陸させたが、油圧系統の故障で引き返した。
 米軍の空襲が激しさを増し、修理のための部品が届かない。印旛飛行場もグラマン戦闘機に銃撃された。頭部が半分ない遺体、腹から内臓が出て苦しむ同僚。死ぬ覚悟が再び揺らいだ。

<志願兵はおらず>
 45年8月15日、修理がかなわないまま終戦を迎えた。沖縄戦が終戦の約2カ月前に終わっていたことを、後で知った。敗戦濃厚の中で続けられた特攻。「戦略などなかったのだ」。今も割り切れない。
 戦後、1級建築士の資格を取り、大学職員として東北大、岩手大などの施設設計を指揮した。3人の子どもにも恵まれ、繁栄の時代を享受した。
 引き換えに失われた多くの若い命。「好きで特攻を志願した兵隊はいない。最期の十数秒間は、つらかったろう」
 十数秒。その一瞬を永遠に思い浮かべるだろうと思う。(宮崎伸一)


関連ページ: 宮城 社会

2018年08月16日木曜日


先頭に戻る