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<災禍を超えて>戦後73年目の夏(下)艦砲射撃遭遇、津波で姉弟犠牲/福士義一さん(86)釜石市

鵜住居地区に再建した岩鼻さん(左)の自宅で、当時を振り返る福士さん

 太平洋戦争の砲撃や原爆を生き抜き、東日本大震災で古里を襲う津波や原発事故に遭遇した。二つの災禍を乗り越え、壮絶で非情な体験を今に伝える。戦後73年目の夏。福島、宮城、岩手の3人が語り継ぐ。

◎避難促した父

 <太平洋戦争末期の1945年7月14日、釜石市は本土初の艦砲射撃を受けた。中心部は壊滅し、当時の鵜住居(うのすまい)村にも艦載機が襲来。2度目の8月9日の艦砲射撃と合わせ、計約800人が死亡した>
 当時は13歳でした。父と牛の世話をしていた時、2機の飛行機が上空に見えました。軍隊の経験者だった父が「敵の飛行機だ」と叫び、鵜住居駅前の交番に駆け込みました。
 父は消防団と翼賛壮年団の副団長で、敵機来襲を警察に伝える任務がありました。三陸沖を見張る監視哨(しょう)から「大艦隊が沖合にいる」との情報も入ったため、防空壕(ごう)に避難するよう住民に呼び掛けました。
 バラバラ、バラバラと艦載機の機銃弾が駅前の村役場や学校に着弾する音が響きました。沖からも砲撃音が聞こえ、釜石の方向からはもうもうと大きな黒煙が上がりました。
 銃弾は交番にも飛び込み、私と母が駆け付けた時、父は椅子に座ったまま事切れていました。銃弾は右耳の上を射抜いて体内で止まり、足元には大きな血だまりができていました。避難誘導は奏功したけれど、父は鵜住居でただ1人の戦死者になり、母と子ども8人が残されました。

◎町内会 仲深め
 <戦災後の釜石周辺には遺児があふれ、多くの人が仕事を失った。食うだけで精いっぱいの時代。いがみ合う地域をまとめたのは、「盆野球」だった>
 村にはすさんだ空気が漂っていました。橋の上で殴り合いが起こることもしばしば。47年、村に開業した医師から「野球で決着をつけたらどうか」と提案され、町内会ごとにチームをつくり、48年のお盆に第1回の大会が開かれました。
 とにかく楽しかった。白球を追う瞬間は、ひもじい生活を忘れることができました。毎年、回を重ねるごとに各町内会は仲を深め、家族のようになりました。
 <2011年の東日本大震災の津波で、福士さんの住む同市鵜住居地区の仲町内会(120世帯)は102人が犠牲になった>
 大きな揺れがあった後、急いで車で鵜住居駅前の自宅に戻りました。隣の家には、病院から一時帰宅していた弟と姉3人がいました。津波が来る直前、妻を車に乗せ、山側に逃げました。最年長の姉も車で逃げましたが、弟と姉2人は助かりませんでした。
 妻は13年、病気が悪化して仮設住宅で息を引き取りました。生き残った住民も市内外に離散し、町内会もいったん消滅することに。「人のつながりまで消えてしまうのは忍びない」と、中学校時代の後輩で、町内会長の岩鼻新一郎さん(82)と2人で住民の消息を訪ねて回り、再び会員の名簿を作り直しました。
 震災で途絶えた「盆野球」は昨夏に復活。今年3月18日には、元町内会の住民約50人を集め、犠牲者を悼む法要を開きました。二つの災禍を生かされた私たちだからこそ、支え合って生きなければなりません。
(聞き手は報道部・菅谷仁)


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2018年08月16日木曜日


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