岩手のニュース

<東北甲子園物語>一関中、対戦相手にコメ 戦後の食糧難乗り越え決勝目指す

奥羽大会の優勝旗を手にする一関中ナイン=46年8月、一関中グラウンド(伊藤雄三さん提供)

 100回を数える全国高校野球選手権で、戦後の食糧難を乗り越えた球児の美談として、岩手・一関中(現一関一高)が対戦校にコメを贈った話がある。エースだった田村泰延さん(86)=一関市=は「当時はわれわれも知らなかったが、後に新聞記者に聞かされた」と語る。
 1946(昭和21)年、戦後に再開した最初の大会(西宮球場で開催)に、一関中は奥羽代表として出場した。初戦の2回戦で鹿児島商に4−11で敗れると、持参したコメの一部を鹿児島商に贈った。
 届けたのはチームのマネジャーを務めた同中OBの米沢清勝さん(故人)。米どころの宮城県若柳町(現栗原市)出身で実家は旅館を営んでおり、全国大会出場が決まると、つてを頼ってコメ6、7俵を集めた。
 「決勝まで勝ち残っても困らないようにと、みんなで小分けにして汽車で運んだ。途中で盗まれたり袋が破れてこぼしたりしたが、初戦で負けてだいぶ余ってしまった」と田村さん。ならばと、米沢さんが選手に黙って鹿児島商の宿舎に届けた。「私たちの分まで頑張ってほしい」とリュック二つ分を渡した。
 1975(昭和50)年夏、甲子園大会期間中のNHKテレビで、この美談が紹介されると、両校関係者に広まり、鹿児島側から一関中OBに礼があったという。「一関一高野球部100年史」に紹介されている。
 当時は海藻やコンニャクを持ち込む学校もあるなど、食糧事情は厳しかった。米沢さんは後に宮城県議になった人。「世話好きな人だった。後からその話を聞いて、さもありなんと思った」と同じ若柳町出身で主将だった伊藤雄三さん(89)は懐かしむ。
 なお、余ったコメの一部は神戸の闇市で売り払い、ナインが伊勢参りをしながら帰郷する費用となった。(「東北甲子園物語」は今回で終了します)


関連ページ: 岩手 スポーツ

2018年08月18日土曜日


先頭に戻る