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<奥羽の義 戊辰150年>(17)同盟軍大敗 血に染まる川

夕闇が辺りに迫るころ、清流の水面(みなも)に赤く街明かりが映った。白河市の中心部を流れる谷津田川は、戊辰戦争の悲惨な歴史をしのばせる=白河市向新蔵
「境の明神」から道を隔てた竹林の中に「従是北(これよりきた)白川領」の石柱が立つ。新政府軍を迎え撃った会津藩は、戦いを前に石柱を引き倒し「会津領」の木札を立てたと伝わる=白河市白坂明神

◎第3部 東北に戦火/白河の戦い

 白河市中心部を流れる谷津田(やんた)川。川沿いの遊歩道にはツツジやサクラが植栽され、水車小屋も立つ。風情ある景観の川が、かつて「血染めの川」と呼ばれたとは想像できない。
 1868(慶応4)年旧暦5月1日。東北の玄関口である白河の城下に新政府軍が侵攻した。戦火はついに奥羽に及んだ。
 4月に江戸を無血開城させた新政府軍はそのまま北上し、奥州街道の国境、現在の白河市と栃木県那須町の境に立つ神社「境の明神」を越えた。会津、いわき、仙台を結ぶ白河が破られれば、新政府軍が一挙に奥羽深部まで侵入しかねない。大一番に奥羽列藩同盟軍は2500を超す兵を投じ、総力戦で迎え撃った。
 だが、結果は大敗。薩長を中心に700の新政府軍は兵を3隊に分け、城下の両側面から包囲する作戦に出た。最新式の連発銃を使う新政府軍に対し、同盟軍は旧式の火縄銃。大砲の数や性能でも差があった。早朝に始まった戦闘は昼すぎには決し、わずか半日で同盟軍は700の犠牲者を出して敗走した。
 白河市史の執筆者で、白川悠紀の筆名で小説「白河大戦争」を出版した同市中央公民館社会教育指導員の植村美洋(よしひろ)さん(62)は「同盟軍は統一的な作戦を立てる指揮官がおらず、部隊同士の連携が悪かった。新政府軍は実戦慣れし、兵の展開も優れていた」と語る。
 捕虜となった同盟軍の兵は翌日、円明寺橋など谷津田川に架かる数カ所の橋の上で斬首された。遺体が投げ捨てられた川は血に染まった。円明寺橋のたもとには犠牲者を悼む「南無阿弥陀仏」の石碑が立つ。
 同盟軍はその後7度にわたり白河の奪還を試みたが実らなかった。一連の攻防戦で両軍合わせて1000人超が犠牲となったとされる。
 白河の住民は戦火の合間に死者を敵味方分け隔てなく埋葬した。亡くなった人を大切にする素朴な土地柄ゆえという。市内には戊辰戦争関連の墓や慰霊碑が60カ所以上あり、今も地元の人々が供養を続けている。(文・酒井原雄平 写真・岩野一英)

[白河の戦い]5月1日の戦闘で会津藩は家老の西郷頼母(たのも)を総督に任命し、ともに奥羽列藩同盟の主力を担った仙台藩は参謀坂本大炊(おおい)を派遣するなど戦力を集結させたが大敗した。作戦会議で、実戦経験が豊富な新選組隊長の山口二郎(旧名斎藤一)は城下ではなく前線での積極防衛を訴えたが退けられた。白河の敗戦で仙台藩は坂本のほか、軍監の姉歯武之進ら多くの重臣を失った。坂本は錦旗を京都から仙台に運び、姉歯は世良修蔵の暗殺を指揮した人物。会津藩副総督の横山主税(ちから)も戦死した。


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2018年08月26日日曜日


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