宮城のニュース

<丸森・3寺院巡り>京との交流 文化財が示す

藩制時代の様子を描いた絵図について東北大生たちに説明する大江住職(右)
法衣や掛け軸など宗吽院所蔵の文化財

 古来、民間の厚い信仰を集めた修験道。明治期に政府が廃止令を出し全国的に衰退したが、県南の丸森町は、今も3カ所の修験寺が残る「修験の里」として知られる。山伏が先達を務め同町で行う「峰入り修行」に同行するなどして、厳しくも奥深い修験の世界を垣間見た。(角田支局・会田正宣)

◎みやぎ路 修験の息づく里(中)宗吽院

 樹皮に記されたお経や法衣などの法具に加え、和歌の短冊や掛け軸、藩制時代の境内の様子を描いた絵図などが宝物殿にあまた残る。のどかな水田地帯が広がる丸森町舘矢間の修験寺「宗吽院」を6月、東北大の学生が見学に訪れ、大江智信住職(66)の説明に耳を傾けた。
 大学院文学研究科修士2年の太田沙椰香さん(23)は、1825年ごろの京都の歌人の手紙に添えられた、京都御所のサクラに目を見張った。「当時の花びらが残っていて感動した。資料に直接触れることができ、貴重な経験だった」と顔をほころばせた。
 宗吽院は当時、良覚院(仙台市)と東光院(角田市)に次ぐ高位の修験寺として、仙台藩南部の修験者を統括する地位にあった。明治政府の修験廃止令以前、修験は厚い信仰を受け、地域に根を張っていた。仙台藩内には修験寺が約450カ所あり、丸森町内には21カ所あったとされる。トップクラスの修験寺の勢威を示すのが文化財の数々だ。

 サクラの書状を受領した第38世住職の大江良廣(りょうこう)は、本山である聖護院(京都)に4年に1回のペースで赴き、公家と交流を深めた。その一人が、光格天皇の歌壇の中心人物だった賀茂季鷹(すえたか)。聖護院のトップも皇室関係者で、朝廷との近さをうかがわせる。
 宗吽院の古文書の保存伝承に協力し、約4000点をデジタル撮影した東北大災害科学国際研究所の佐藤大介准教授(44)=日本近世史=は「京のサロンにとって、歌枕みちのくの文化人は歓迎すべき客人だった。仙台藩の高位の修験者の生活や、京との交流が分かる貴重な資料だ」と解説する。
 もちろん、伊達家とのゆかりは深い。伊達政宗の祖父晴宗が、宗吽院に戦勝を祈願して合戦に勝ち、角田市西根地区の土地を献上した寄進状などが残る。

 佐藤准教授は2012年に調査を開始してから、研究成果を毎年、舘矢間まちづくりセンターなどで展示している。そのかいあって、地元で宗吽院が再認識されるようになった。佐藤准教授は「資料は地域にあってこそ生きる。伝承のため研究者として何ができるか考えたい」と言う。
 智信住職も「宗吽院の歴史を知らない人が地域でも少なくなかったが、理解が深まって感謝している。高い湿気など管理が悩ましいが、文化財を後世に引き継ぎたい」と願う。

[そううんいん]聖武天皇の勅願で737年、紀州(和歌山県)の熊野神社の分霊を祭ったのが由来とされる。903年に大江良言(よしこと)が熊野神社から移り、宗吽院第1世となる。丸森町舘矢間木沼宮後180。0224(72)6614。


関連ページ: 宮城 社会

2018年08月28日火曜日


先頭に戻る