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<奥羽の義 戊辰150年>(18)新政府軍上陸堅城守れず

新政府軍の軍艦が姿を現した平潟の海=茨城県北茨木市平潟町

◎第3部 東北に戦火/磐城の戦い

 奥羽越列藩同盟軍との戦いで、新政府軍は増援部隊を太平洋から送り込んだ。1868(慶応4)年旧暦6月16日朝、平潟沖(いわき市と茨城県北茨城市の境)に現れた軍艦3隻には、薩摩、佐土原(さどわら)、大村藩の兵計700人が乗っていた。
 平潟の港は仙台藩が守備していたが、3隻は「航海中に水や燃料が底を突いた。補給させてほしい」と緊急を装い、住民に小舟を出させて兵を上陸させた。平潟は新政府側だった川越藩の飛び地で、事前に綿密な上陸作戦が練られていたらしい。
 同盟軍は勿来の切通し(いわき市)から大軍を差し向けて奪還を図ったが、艦砲射撃を受けて失敗。新政府軍は磐城平城下に迫った。
 磐城平藩は藩主安藤信勇(のぶたけ)が京都にいて不在で、隠居の元藩主安藤信正の指揮下にあった。信正はかつて老中として幕府中枢を担った大物で、藩士と城に残り抗戦した。
 同盟軍は6月29日と7月1日の2度、新政府軍を撃退した。高所の薬王寺台(現在の松ケ岡公園)から大砲で応戦し、攻めあぐねた新政府軍は弾薬が尽きて兵を引いた。
 磐城平城は1614年築。当初は外様の仙台藩のけん制が狙いで、深い内堀と高い城郭を備え、守りが堅かった。攻めた薩摩藩私領2番隊は「奥州一の堅城」と舌を巻いた。
 いわき地域学会副代表幹事の夏井芳徳さん(58)=いわき明星大客員教授=は「新政府軍はそれまで各地で連戦連勝。同盟軍を甘く見て部隊同士が連携不足だった」と話す。
 しかし「新政府軍は2度の失敗を教訓に態勢を立て直した」(夏井さん)。兵力を2000人に増員し、弾薬も十分に補充して7月13日朝、3度目の総攻撃を掛けた。
 同盟軍は押されながらも本丸への侵入は許さなかったが、深夜まで続いた新政府軍の猛攻に弾薬が尽き、自ら城に火を放ち敗走した。信正も脱出し仙台に向かった。
 堅守を誇った磐城平城跡は現在、大部分が住宅地となり、石垣や水堀に名残をとどめるのみだ。

[安藤信正]1819年磐城平藩4代藩主安藤信由の長男として江戸で誕生。47年5代藩主に就く。早くから幕政に参画し寺社奉行や若年寄を歴任する。60年老中就任。大老井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」の事態収拾に当たる。井伊の後を受けて幕政を取り仕切り外交を担当。欧米への使節派遣や小笠原諸島の領有宣言を果たす。幕府立て直しへ皇女和宮の降嫁も実現した。しかし尊王攘夷派の非難を受け、62年「坂下門外の変」で水戸浪士に襲撃され負傷。老中を罷免される。戊辰戦争後、謹慎を経て71年東京で死去。

太平洋の荒波が磯を洗う平潟。昔から天然の良港として知られ、湯長谷(ゆながや)藩(磐城平藩の支藩)で産出された石炭の積み出し港だった。列藩同盟の仙台藩が警備に当たっていたが、新政府軍の上陸を阻止できず、磐城平城への侵攻を許してしまった=茨城県北茨城市平潟町

江戸時代初め、初代藩主鳥居忠政によって築城された磐城平城。天守に代わる本丸の三階櫓(やぐら)は、戊辰の戦火で焼失。城跡の周りは静かな住宅地になっているが、所々に往時をしのばせる石垣が残る=いわき市平旧城跡


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2018年09月02日日曜日


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