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<奥羽の義 戊辰150年>(20)要衝失い仙台藩崖っぷち

御殿岬は10メートルを超える高さの切り立った断崖が続く。周囲は砂浜が広がるが、仙台藩の部隊が飛び込んだ岬の辺りだけが険しい崖になっている=福島県新地町
御殿岬の道路沿いに立つ「仙台藩松山隊勇戦地」の碑。地元の人たちが育てた花が色鮮やかに咲き、この地で戦死した仙台藩士を弔う

◎第3部 東北に戦火/駒ケ嶺の戦い

 新政府軍に追い詰められ、逃げ場を失った仙台藩兵が次々に崖から身を投げた。福島県新地町今泉の御殿(ごてん)岬には、壮絶な逸話が残る。
 1868(慶応4)年旧暦8月6日。磐城を攻略して太平洋沿いを北上する新政府軍に、抗戦してきた相馬中村藩が降伏した。奥羽越列藩同盟を離脱して新政府側となった同藩は攻撃の矛先を仙台藩に転じた。
 仙台藩領の南端に位置し相馬藩と接する駒ケ嶺は、新政府軍の仙台領内への侵入を食い止める最終防衛線と位置付けられていた。破られれば仙台城までわずか約60キロだ。
 仙台藩は死守すべく駒ケ嶺城に本陣を置き、2000の大兵で固めた。導入したばかりのアームストロング砲も配備したとされる。
 一方、長州、薩摩、筑前など新政府軍は兵の数3000超といわれ、相馬藩が先導した。11日の総攻撃で駒ケ嶺城は炎上した。
 仙台軍は坂元(宮城県山元町)に拠点を移して20日に奪回作戦を決行。仙台藩松山領(現在の大崎市)の部隊が攻め込んだ。当初は優勢だったが、大雨で火縄銃がぬれて使えずに形勢が逆転。南北から挟み撃ちにされ、御殿岬に追い詰められた。
 「駒ケ嶺口戊辰戦争史」(1894年)によると、海を背負って奮戦した松山隊は力尽き、進退窮まった兵が海に身を投じた。27人が戦死し、隊長鈴木市郎左衛門は近くの大戸浜にある松の木の根元で自害、駒ケ嶺奪回は失敗に終わった。
 御殿岬には現在、「仙台藩松山隊勇戦地」の石碑が立つ。大戸浜には松山隊と隊長鈴木の墓があり、遺族らが慰霊に訪れる。
 新地町教委教育総務課の佐藤祐太副主査(43)は「激戦だったにもかかわらず、駒ケ嶺の知名度は会津や白河の戦いと比べて低い。多くの犠牲を出した戦禍が新地町でもあったことを知ってほしい」と話す。
 要衝の駒ケ嶺を失い、敵の領内侵攻は時間の問題。仙台藩は文字通り崖っぷちに立たされ、藩内では降伏が公然とささやかれ始めた。
(文・酒井原雄平/写真・鹿野智裕)

[駒ケ嶺城]戦国時代の武将相馬盛胤(もりたね)が伊達氏への対抗強化を目的に永禄〜天正年間(1570年代)に築いた山城。牛が寝そべった形に似ていることから臥牛(がぎゅう)城の別名がある。1589(天正17)年の戦いで伊達政宗が奪った。以来、伊達氏は相馬氏との国境の城として重視し、信頼する重臣を歴代の城代に置いた。本丸を中心に西館、二ノ館、三ノ館と、二重の堀があった。戊辰戦争当時の城代は佐藤宮内。新政府軍の攻撃により焼失し、現在は山林となっている。


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2018年09月23日日曜日


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