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<原敬>「平民宰相」誕生100年(上)原点/東北蔑視に強い反感

原敬(原敬記念館提供)

 今からちょうど100年前の1918年9月29日、爵位を持たない初の「平民宰相」が誕生した。日本の本格的な政党政治は、ここに始まる。盛岡市出身の第19代内閣総理大臣原敬(たかし)(1856〜1921年)。その足跡を訪ねた。(盛岡総局・北村早智里)

 17年9月8日の盛岡市の報恩寺。戊辰戦争で死亡した盛岡藩士らの50回忌に、立憲政友会総裁で、1年後に首相となる原の姿があった。
 「戊辰戦役は政見の異同(考え方の違い)のみ。当時勝てば官軍、負くれば賊との俗謡(言い習わし)あり。其(その)真相を語るものなり」
 原は旧藩士を代表して祭文を朗読。記録に残る限り、12歳で経験した戊辰戦争について原が心情を口外したのは生涯でこの一度きりだった。
 原は幼名を健次郎という。1856年2月9日、盛岡藩士の家に生まれた。盛岡市本宮(旧本宮村)には今も生家が残る。
 戊辰戦争に敗れた盛岡藩は領地の召し上げ、70万両の制裁金といった新政府による重い処罰に疲弊していく。家老格だった原家は制裁金を用立てなければならない藩に備蓄米や骨董(こっとう)を献納。家屋の5分の4も売却して没落に至った。
 「よしこの家運挽回してみせる」。窮地に奮い立つ年若い原を、弟の誠は後にこう回想している。
 その言葉通りに19歳で上京。司法省法学校などで法学や歴史学を修め、郵便報知新聞の記者を経て外務省に入省。卓抜した交渉術から伊藤博文、陸奥宗光ら新政府の大立者に引き立てられ、政界に転じた。
 親交のあった新聞記者前田蓮山は著書「原敬伝」に「南部藩(盛岡藩)は亡(ほろ)びた。然るに天は、一人の復讐(ふくしゅう)者を残した」と記し、原を政治に駆り立てたのは薩長への恨みであったと断じた。
 その根拠が原の俳号「一山(いっさん)」だったと前田は論じる。東北をあざ笑う「白河以北一山百文」から採った俳号に原の反骨がみて取れるという。
 ただ、政治家原の深奥に薩長閥への恨みがあったことをうかがわせる史料は、いまだ見つかっていない。生前の原が長く残すよう指示した「原敬日記」(全83冊)にも。
 原敬記念館(盛岡市)の田崎農巳(あつみ)主任学芸員は「原が戊辰戦争の『復讐者』だったとは言い切れない。むしろ東北蔑視への反感の方が強かった」と推測する。
 「各種史料からせり出す原敬像は、歴史を公平中立に捉えようとする冷静な政治家だ。『藩閥政治と渡り合って賊軍の汚名をそそいだ平民宰相』のイメージは、戊辰戦争以来虐げられてきた東北の人々の思いが作り上げたのかもしれない」

[戊辰戦争]「鳥羽・伏見の戦い」に始まる新政府軍と旧幕府軍の内戦。薩摩、長州両藩を中心とする新政府軍は、仙台藩と奥羽諸藩に会津、庄内両藩の追討を命令。これに反発した陸奥、出羽、北越の諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結成して抵抗するも敗れた。

戊辰戦争殉職者50回忌で原がささげた祭文の碑=盛岡市内丸のもりおか歴史文化館

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2018年09月28日金曜日


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