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<原敬>「平民宰相」誕生100年(下)信条/清廉潔白自ら奉じる

19歳から亡くなる直前までしたためた全83冊の「原敬日記」=原敬記念館収蔵

 今からちょうど100年前の1918年9月29日、爵位を持たない初の「平民宰相」が誕生した。日本の本格的な政党政治は、ここに始まる。盛岡市出身の第19代内閣総理大臣原敬(たかし)(1856〜1921年)。その足跡を訪ねた。(盛岡総局・北村早智里)

 憲法や議会といった近代政治の道具立てが未整備だった明治前期。政府を牛耳る「藩閥政治」と言論の自由を求める「自由民権運動」の対立は日々激しさを増していった。
 盛岡から上京して5年、24歳になった原敬(はらたかし)(1856〜1921年)は、郵便報知新聞の記者として健筆を振るっていた。
 「理を以(もっ)て交わるの間に情を存し、情を以て接するの間に理を存す」。1880年の新聞論説「官民相対するの道を論ず」から、後の政党政治家原の信条が読み取れる。
 原は「官(藩閥政治)」と「民(自由民権運動)」の反目をいさめつつ、英国に倣った二大政党制の導入を提唱。平穏な政権交代による治安の安定、殖産興業の推進による国際競争力の強化をたびたび論じた。
 論説執筆から38年後の1918年9月29日、立憲政友会総裁の原を首相とする政党内閣が成立した。
 高校新設による教育の充実、地方鉄道網の整備など「平民宰相」の功績は数多い。一方で「平民出」らしからぬ政治判断が大衆の落胆を招く。
 男子普通選挙の即時実施を求める世論を「時期を見て」と一蹴し、衆院を解散してまで選挙法改正を阻止。野党は「西にレーニン、東に原」とやゆした。
 岩手大副学長の丸山仁教授(政治学)は「理想を実現するために現実的な手段を選択する政治家だった」と評する。
 立憲政友会員らによる汚職事件の処理に追われていた21年11月4日、原は東京駅で右翼テロの凶刃に倒れる。65歳だった。
 原内閣で朝鮮総督府政務総監を務めた水野錬太郎は、原が「平民宰相」と呼ばれる真の理由を「自ら奉ずるところが清廉潔白で、すべての行状がいかにも平民主義であったから」と振り返っている。
 「平民主義」の政治は、原の古里に今日も息づいていた。盛岡市議会の会派「盛友会」の名称は、原が率いた立憲政友会に由来する。
 盛友会幹事長の遠藤政幸議員は「常に市民目線で声を拾い、伝えるのが地方議会の使命。原さんが公利を追い求めたように、まちの隅々まで行き届く政治を目指したい」と話す。


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2018年09月29日土曜日


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