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<奥羽の義 戊辰150年>(22)手薄突き新政府軍 一気に

母成峠を突破した新政府軍は、疾風のごとく猪苗代湖の北岸に迫った。会津藩と新政府軍が激しく戦った十六橋付近には、明治に入ってから安積疎水の水門が設けられ、今も橋が架かっている=福島県猪苗代町翁沢
安達太良山の登山口の一つにもなっている母成峠。辺りから登山客の姿が消えるころ、夕日が会津の峰々を黄金色に染めた。左側の山の向こうに猪苗代湖が広がる。湖を過ぎれば会津若松まであとわずか=福島県猪苗代町蚕養

◎第4部 会津戦争/母成峠の戦い

 1868(慶応4)年旧暦8月21日。新政府軍は会津若松を目指し、郡山市と福島県猪苗代町にまたがる母成(ぼなり)峠(972メートル)を急襲した。
 二本松城を落とした新政府軍が次に標的としたのは仙台や米沢ではなく「本丸」の会津だった。新政府の諸藩は南国が多く、冬の到来前に決着を急いだと言われる。会津藩は主要な街道の守備を固めていたが、難路の母成峠は手薄で虚を突かれた。
 新政府軍は板垣退助(土佐藩)、伊地知正治(薩摩藩)率いる兵3000。会津藩側は旧幕臣大鳥圭介の伝習隊を主力に仙台、二本松両藩の援軍や山口次郎(旧名斎藤一)、土方歳三ら新選組の計800だった。
 戦いは午前9時ごろ、濃霧の中、砲撃戦で始まった。当初は高所に陣取った会津藩側が有利だった。しかし地元の猟師を道案内にした新政府軍に背後を突かれると混乱に陥り、猪苗代方面に敗走した。
 新政府軍のルートは、かつて伊達政宗が会津の葦名氏を破った際に通った「伊達路」と呼ばれる道だった。猪苗代地方史研究会の江花俊和会長(75)は「母成峠進攻を提案した伊地知の頭には当然、政宗の成功例があったはずだ」とみる。
 峠には今も会津藩が築いた防塁や砲台の跡が残る。同研究会は熱海史談会(郡山市)と共に「戊辰戦争150年会津藩母成峠陣跡保存協議会」を設立、遺構の管理に努める。1978年には110年間所在不明だった戦死者の埋葬地も発見した。「母成峠は新政府、会津藩双方にとって重要な一戦。会津藩の悲劇の始まりでもある」と江花さんは言う。
 峠を突破した新政府軍は猪苗代湖の北側を休まず進攻、翌22日午後4時ごろ、川村純義(薩摩藩)の隊が湖の北西、日橋(にっぱし)川に架かる十六橋(会津若松市、猪苗代町)に到達した。
 会津兵は足止めしようと石組みの橋を壊す作業中だったが、集中砲火を浴びて退却せざるを得なかった。会津若松に至る要路の橋を占拠されたことで、戦火は予想外の速さで鶴ケ城下に迫ることになる。(文・酒井原雄平 写真・岩野一英)

[母成峠]東南側が険しい谷、北西側がなだらかな傾斜となっている。頂上周辺に古戦場碑や東軍(会津藩側)殉難者慰霊碑が立つ。会津藩が築いた防塁は南北に全長384メートル。このうち北側部分は上杉景勝時代の1600年に築かれた遺構を再利用している。
 十六橋 平安時代初期に弘法大師が村人の不便解消のため16の塚を作って橋を渡したのが始まりとされる。1880(明治13)年、猪苗代湖から取水して郡山方面に供給する安積疎水事業で十六橋水門が作られ、現在も湖の水位調整に使われている。


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2018年10月07日日曜日


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