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<東日本大震災 風化にあらがう>失敗の現場どう伝承 原発事故対応拠点解体へ

オフサイトセンター内のホワイトボード。原発事故直後の状況を伝える=福島県大熊町

 福島県の原発事故対応拠点だった大熊町の「オフサイトセンター」の解体が決まった。東京電力福島第1原発事故では放射線量上昇で職員が退去し、住民への情報発信など本来の機能を果たせなかった。「幻の最前線」が語る事故の教訓をどう伝え、生かしていくか。2020年の解体まで、対応が問われる。(福島総局・神田一道)

 「HPCI(高圧注水系) RCIC(原子炉隔離時冷却系)作動不能」「3u(3号機)爆発」
 今月3日のオフサイトセンター。2階の全体会議室は7年半前から、時間が止まったままだ。第1原発の暴走が記されたホワイトボード。机には缶詰やヘルメット、電話帳が散乱する。

<主導できず>
 センターは原発事故避難対応の「失敗の現場」だ。
 政府の事故調査・検証委員会の中間報告書は「初動段階で所与の役割を十分に果たすことができなかった」と指摘。国会の事故調査委員会(国会事故調)の報告書は「事故対応に何らの寄与もなし得なかった」と辛辣(しんらつ)に表現した。
 震災と原子力災害の同時発生は想定外だった。2011年3月11日の大地震後、停電したセンターは非常用発電機も故障。対策本部の実質的な設置は翌12日午前3時まで遅れた。電源が回復しても通信回線は途絶え、首相官邸とのテレビ会議はできなかった。
 県の担当者は「事故前は対策本部が現地の実情を踏まえ、災害対応を主導する計画だったが、実際は政府の決定事項を事後的に知るだけだった」と語る。
 第1原発から5キロの立地も負に作用した。12日午前5時、避難指示区域が3キロから10キロに拡大し、センターは孤立。県や自衛隊、東電などの約140人は1日2食のレトルトカレーでしのぎながら対応した。

<直後のまま>
 撤退は15日午前11時。12日以降、原子炉建屋が相次ぎ水素爆発を起こした。室内の放射線量はぐんぐん上昇。撤退直前には毎時15マイクロシーベルトに達した。高性能エアフィルターの設置を怠っていたためだ。
 対策本部機能は福島県庁に移り、センターを含む一帯は帰還困難区域に。復興の遅れで建物は放置され、結果的に事故直後の状況がそのまま残った。
 周辺は昨年11月、国が除染とインフラ整備を一体的に進める特定復興再生拠点区域(復興拠点)に認定された。県は「街づくりに支障が出る。地元からの求めもある」(原子力安全対策課)と解体を決めた。
 県は今後、事故の状況を伝えるホワイトボードや地図などの備品を「貴重な資料」として保存。隣接する双葉町に整備するアーカイブ拠点施設に所蔵する。
 解体後は「失敗の現場」が残した事実を風化させない取り組みが重要になる。
 大熊町商工会長で、国会事故調委員だった蜂須賀礼子さん(66)は「原発事故の教訓をしっかり伝えるためにも、アーカイブ拠点施設で展示してもらいたい」と語る。

[福島県大熊町のオフサイトセンター]東京電力福島第1(大熊町、双葉町)や第2原発(楢葉町、富岡町)の事故発生時の対応拠点。1999年の茨城県東海村臨界事故を受け、県が2002年に整備した。鉄筋2階で1階に両原発の保安検査官事務所やプレスルーム、除染室、2階に全体会議室などがあった。県は原発事故後、第1原発のセンターを南相馬市、第2原発のセンターを楢葉町に再整備した。


2018年10月08日月曜日


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