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<奥羽の義 戊辰150年>(23)奇策は仏軍楽隊に着想?

会津地方に春を告げる彼岸獅子。戊辰戦争で1000人もの会津藩兵が、小松獅子団の獅子舞を先頭に城に戻る離れ業を演じた。「会津葵」を身に着けた小松獅子団は、今も家々を巡って家内安全や豊作を願う=会津若松市西栄町
彼岸獅子の後に続いて、会津藩兵が入城した鶴ケ城の西追手門。堅固な石垣の間を観光客が行き交う=会津若松市追手町

◎第4部 会津戦争/彼岸獅子の入城

 新政府軍に包囲された鶴ケ城の援軍に、会津領内で戦っていた会津藩家老の山川大蔵率いる兵1000人が駆け付けた。包囲網を突破するため、山川は奇策に出る。郷土芸能の彼岸獅子を先頭に立たせて堂々と行進したのだ。敵兵があぜんとする中、無傷での入城に成功した。
 荒唐無稽だが史実という。彼岸獅子は小松村(現在の会津若松市北会津町小松地区)の団体で、参加者10人の名前が分かっている。元藩主の松平容保(かたもり)は1871(明治4)年、功績をたたえ、小松獅子団に限り会津松平家の葵紋の使用を許した。
 高久金市著「小松獅子舞考」(1988年)によると、参加者の1人藤田与二郎の証言や、平石弁蔵著「会津戊辰戦争」(1928年)の記述で詳細が判明した。
 「命の保証がない作戦への協力にはためらいもあったようだ」。小松獅子保存会の鈴木利栄(としえい)会長(65)は説明する。敵を欺くため、獅子舞に続く兵は長州藩に似せた肩章を着け、ばれた時を考えて銃は火縄を付けておくなど臨戦態勢を整えた上で、西追手門までの約200メートルをおはやしを鳴らして進んだという。
 容保ら城内は大歓迎。1000人の兵が加わったことで、鶴ケ城は1カ月もの籠城戦を戦い抜いた。
 山川は幕府使節に同行して渡欧した経験があり、会津藩にフランス式の軍隊訓練も導入した。鈴木さんは「仏軍の鼓笛隊のように音楽で士気を高めようと考えたとき、彼岸獅子のおはやしが山川の頭に浮かんだのではないか」と指摘する。
 他の郷土芸能と同様に、会津彼岸獅子も担い手不足が懸念されている。計約40人の踊り手、はやし手がいる小松獅子保存会も、地元小学校の児童に指導するなど後継者育成に努める。門外不出で踊り手は長男限定といった慣習も緩和した。
 「今年は戊辰戦争関連で注目されているが、彼岸獅子は本来、先祖供養と五穀豊穣(ほうじょう)を祈るもの。技を磨き、古き良き芸能を正確に後世に伝えたい」。鈴木さんは力を込めた。(文・酒井原雄平 写真・鹿野智裕)

[会津彼岸獅子]春の彼岸に会津地方で披露される伝統行事。会津若松市無形民俗文化財。太夫、雄、雌の3体の獅子が太鼓、笛のおはやしに合わせて練り歩き、五穀豊穣や家内安全を祈る。同市内には小松獅子以外にも天寧、本滝沢などの獅子団がある。

[山川大蔵]1845年、会津藩家老の家に生まれる。後に浩と改名。戊辰戦争後は斗南藩大参事。西南戦争に参戦し陸軍少将となる。東京高等師範学校長も務めた。幕末の会津藩政を記録した「京都守護職始末」著者。98年死去。弟は東京帝大総長の山川健次郎。


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2018年10月14日日曜日


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