宮城のニュース

<仙台いやすこ歩き>(88)どんどん焼き/しょうゆ香る追憶の味

 昼下がりの公園、駆けてきた小学生3人組がランドセルからノートを取り出し、宿題を始める。石の椅子が机代わり。と思う間もなく遊びだす。子どもは昔と変わらないなあと頬を緩ませつつ、向かったのは仙台市青葉区一番町の壱弐参(いろは)横丁だ。
 画伯との約束の店の戸をガラガラッと開ければ、「久しぶり、みいちゃん」と「なつかし屋」店主の種沢和五郎さん(62)の声。ちょっと暗めの木造りの店内が、昔、毎日のように通ったとすけ屋さんを連想させる。
 なつかし屋は今年で33年目だそう。当初のお店は近くの文化横丁にあり、店内にはブリキのおもちゃが並び、とすけ(くじ引き)なんかもできた。改めて聞くと、昭和30年代の駄菓子屋さんのイメージでお店を開いたそうだ。
 「私は長町(太白区)で育ったけど『一銭店屋(いっせんみせや)』って呼んでたよ」と画伯。種沢さんは二十人町(宮城野区)で「一銭コ屋(いっせんこや)」。私は木町(青葉区)で「とすけ屋」。同じ仙台でもこんなに呼び名が違うんだと3人ともびっくり。でも今日の目当てであるどんどん焼きは、みんな同じだ。
 「どんどん焼きって、どんと祭と関係あるの?」と尋ねると、「昔、どーんどーんと太鼓を叩きながら、リヤカーで売り歩いていたというんだよ。一説だけどね」と笑う種沢さん。
 なつかし屋の味の原点でもあるどんどん焼きは、二十人町の自転車屋さんの奥で、子どもたち相手に売っていたどんどん焼きの味が元だそう。「あの当時、1枚5円だったよ」と種沢さんが言うと、そうそうと大きくうなずいてしまう。
 聞いたらもう食べたくて仕方のないいやすこ2人に、種沢さんは早速目の前で作ってくれた。「小麦粉は前の日から溶いておくんだよ。そうするとなじんでダマにもならないから」。
 油をひいたフライパンに、その生地をおたま1杯分広げる。少し焼けたところでたっぷりのネギ、紅ショウガ、桜エビ、天かすをのせ、さっきより薄く生地を回し掛ける。裏返してしっかり押さえつける。しっかりしっかり。ここがポイントだ。「関西出身のお客さんは、なんで押すんだっていいますね(笑)」。裏返すと、白い皮の向こうに赤や緑が透けて見えてきれい。暗い電球の下、とすけ屋のおばあちゃんが焼いてくれた世界が脳裏によみがえってくる。
 焦げ目の上にしょうゆを塗ると、鼻がひくひく。青のりとかつお節を掛ければ、早く食べてとばかりにかつお節まで踊りだす。焼き上がって皿に盛られた途端、いやすこ女子のメンバーが続々集まるから、不思議だ。はふはふと口へ運べば、香ばしいやら、懐かしいやら。
 「家でおばあちゃんも作ってくれたのよね」といやすこRさん。神奈川県出身のいやすこYさんは「うわっ、食べやすい。パリパリして粋な感じ」。茨城県出身のいやすこSさんは「これ、お好み焼きなんかじゃない。しょうゆ味のクレープ!」などなど。
 昭和ど真ん中生まれの5人組は、「どんどこ食べられるから、どんどこ焼き!」とお代わりを注文。種沢さんも「子どものおやつは大人のおつまみ」と、また香ばしいにおいを店いっぱいにあふれさせた。

◎おぼえがき/東京で流行全国に広がる

 どんどん焼きは、水で溶いた小麦粉を生地とした日本の鉄板焼き料理だ。江戸時代に記録のあるもんじゃ焼きから派生し、大正時代から昭和10年代にかけて東京を中心に、屋台や縁日で販売されて流行した軽食で、全国へ広がった。
 どんどん焼きは生地を焼いてから具をのせる「のせ焼き」で、関西では焼き方や味付けも文字通り「お好み」というスタイルから、合理的な「混ぜ焼き」になったといわれる。
 名前の由来は、屋台がどんどんと太鼓を鳴らして売り歩いたから、また作るそばからどんどん売れたから、さらには焼く際に上から木べらでどんどんたたくから、と諸説ある。
 池波正太郎の随筆「どんどん焼」の中に、「昭和初期から十年代にかけて東京の下町のところどころに出ていた屋台の『どんどん焼』というものは、いまのお好み焼きのごとく、何でも彼でもメリケン粉の中へまぜこんで焼きあげる、というような雑駁(ざっぱく)なものではない」とある。ウスターソースをかけて食べ、値は2銭と書かれている。



 土地には、その土地ならではの食があります。自他共に認める「いやすこ(仙台弁で食いしん坊のこと)」コンビ、仙台市在住のコピーライター(愛称「みい」)とイラストレーター(愛称「画伯」)が、仙台の食を求めて東へ、西へ。歩いて出合ったおいしい話をお届けします。


2018年10月15日月曜日


先頭に戻る