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<須賀川柔道部事故>侑子と共に… 重度意識障害者 取り巻く環境と闘い続けた母の15年

侑子さんのベッドに座り、介護の日々を振り返る晴美さん=11日、須賀川市の自宅(写真部・佐々木浩明撮影)
自宅で20歳の誕生日を両親と祝う侑子さん=2010年9月

 須賀川市で2003年10月、中学1年だった車谷侑子さんが柔道部の練習中に頭を強打し、意識不明の重体となった事故から18日で15年となる。侑子さんは今年9月12日、意識を取り戻さないまま27年の生涯を閉じた。回復を信じ、在宅介護を続けた母親の晴美さん(55)の15年間は、重度意識障害者を取り巻く環境との闘いの日々だった。

 千羽鶴の束がぶら下がり、静かに流れる音楽に混じって時折、ベッドのエアマットが空気圧を自動調節する「ポコ、ポコ」という音が聞こえる。部屋は主を失った今も以前のままだ。
 「目も体も自然と侑子のベッドを向いてしまう」。連夜、同じ部屋の簡易ベッドで休んだ晴美さんの癖も抜けない。事故後にヘルパー2級の資格を取り、たんの吸引や胃ろうでの食事と水分補給、投薬のほぼ全てをこなした。家族の食事は夫の政恭さん(62)の手を借りた。
 重過ぎる障害に行政や医療機関もさじを投げ気味だった。在宅介護に移る際、必要な準備を市の担当者に問うと「分からない」。入院先の病院職員からは「お母さんの愛情100パーセントで介護してください」と「励まし」の言葉を掛けられた。
 協力的な福祉関係者を自力で見つけ、無我夢中で介護を続けたが、今年に入り「このままではいけない」と思い始めた。「寝たきりでなく、車いすで外出するなどの機会を増やしてあげたい。体力が落ちてきた自分も休む時間が必要だ」。声を上げることにした。
 「レスパイト(介護者の一時休養)で使えるようにしてほしい」。万が一の場合でも医療職が多く安心できる市内の公立病院に、侑子さんの一時受け入れを可能にするよう頼んだ。病院側が難色を示したため、8月上旬に市長にも直接要望した。今秋には病院長に直談判する予定だったが、侑子さんは肺炎を起こし、息を引き取った。
 「元々は誰かと一緒でないと何もできず、一人で仙台に出掛けることもできないタイプ。侑子が私を変えた」と晴美さんは言う。両親の姿を見続けた長男直紀さん(24)は、介護を支えた人々の一人だった理学療法士となり、患者に寄り添う毎日を過ごす。
 侑子さんが生きた証しは家族の中で息づいている。
(報道部・若林雅人)


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2018年10月18日木曜日


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