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<奥羽の義 戊辰150年>(24)「早合点の自刃」通説覆る

緑に囲まれた墓地で眠る飯沼貞吉。戊辰戦争で会津若松を離れた飯沼は、仙台で生涯を終えた=仙台市青葉区北山の輪王寺

◎第4部 会津戦争/白虎隊

 1868(慶応4)年旧暦8月23日、戸ノ口堰(せき)洞穴(会津若松市)を抜けて飯盛山にたどり着いた会津藩白虎隊が集団自決した。新政府軍の攻撃を受けて炎に包まれる鶴ケ城下を見て、落城したと絶望したためと言われてきた。
 「彼らは早合点で自刃したのではありません」。仙台市太白区のNPO法人理事長飯沼一宇(かずいえ)さん(77)は講演の度に強調する。自刃した隊士の中でただ一人生き残った飯沼貞吉(後に貞雄と改名)の孫に当たる。
 一宇さんがそう言うのは、通説を覆す史料が2008年に見つかったからだ。貞吉が朱筆を入れた「会津藩白虎隊顛末(てんまつ)略記」。一宇さんの兄が保管する資料の中にあった。
 略記によれば、隊士たちは「敵に突っ込むべきだ」「城は落ちていない。隠れてたどり着こう」と激論を交わした。最終的に作戦遂行は無理があり、虜囚となる前に自決しようとの結論に至った。隊士数も16と従来の20とは異なる。「彼らは落城したと誤認していないことが分かる。自刃は武士の本分を明らかにするためだった」と一宇さんは言う。
 貞吉は脇差しで首を突いたが、奇跡的に蘇生した。その後の足取りは1872(明治5)年に電信技師となるまではっきりしない。が、山口県美祢市には、長州藩士楢崎頼三(1845〜75年)が引き取って養育したとの説がある。同市によると、楢崎家に奉公していた女性の話として伝わる。同家は貞吉を「死に損なったのではない。生かされたのだ」と励ましたという。
 貞吉は電信技師として全国の電話網の架設に尽力した。一宇さんは「生きる意味を見いだした後は、戦争の恩讐(おんしゅう)を越えて国の発展に尽くそうと考えたのだろう」と語る。
 貞吉は1910年、仙台逓信管理局工務部長となり、31年に死去するまで仙台市に住んだ。墓は同市青葉区北山の輪王寺と会津若松市の飯盛山にある。

 白虎隊 会津藩は1868年旧暦3月、戦いに備えて軍制改革を行い、部隊を年齢によって玄武(50歳以上)、青龍(36〜49歳)、朱雀(18〜35歳)、白虎(16、17歳)の四つに分けた。白虎隊は藩士の子弟約300人で構成。本来は予備隊で前藩主松平容保(かたもり)の警護係を務めるなどした。戦火が会津に及んだことで白虎隊に出陣命令が下り、激戦地の戸ノ口原(会津若松市)で戦った。各隊は身分によって士中(上士)、寄合(中士)、足軽(下士)に区別された。飯盛山で集団自刃したのは士中二番隊。(文・酒井原雄平 写真・鹿野智裕)

撤退する白虎隊が通った戸ノ口堰洞穴。約170メートル続き、飯盛山の麓に抜ける。ひんやりした洞穴の中は、150年前にタイムスリップしたかのような異空間。地元の人が毎年、歩いて飯盛山に向かう催しを開き、隊士の苦難をしのぶ=会津若松市一箕町

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2018年10月21日日曜日


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