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<奥羽の義 戊辰150年>(25)籠城戦1カ月 力尽き降伏

新政府軍がアームストロング砲を持ち込んだ小田山。鶴ケ城の天守閣まで遮る物は何もない。会津盆地を背にして建つ城に向けて、容赦ない砲弾が浴びせられた=福島県会津若松市門田町
籠城戦で1カ月間も砲弾にさらされた鶴ケ城。白亜の天守閣は屋根瓦が割れ、壁にも穴が空き、無残な姿へと変わり果てた(会津若松市教育委員会提供)

◎第4部 会津戦争/鶴ケ城総攻撃

 1868(慶応4)年旧暦8月23日早朝、新政府軍が会津藩の鶴ケ城下(現在の会津若松市中心部)に攻め入ると、町は大混乱に陥った。
 戦闘の巻き添えになる市民が続出。藩士の家族は城内に逃げ込んだが、家老西郷頼母の一族21人は足手まといになるのを避けようと自刃を選んだ。同様の悲劇が武家屋敷のあちこちで起きた。
 会津軍は城門を固く閉ざし、籠城戦となった。新政府軍は城の東南約1.4キロに位置する小田山(372メートル)に大砲を据え、女性、子どもら非戦闘員も含め約5000人がこもる城に撃ち込んだ。会津藩士の記録によると、一昼夜で2700発に達した。天守閣は蜂の巣になり、城内は死傷者であふれた。
 現在は公園となっている小田山に登ると、眼下に城が丸見えだ。新政府軍のアームストロング砲は射程約1.5キロと言われる。高所の有利もあって十分に城に届いた。
 新政府軍は続々と援軍を得て、9月には兵数が3万に達した。一方、会津軍は頼みの奥羽越列藩同盟が仙台、米沢、長岡各藩とも自藩の防戦に手いっぱいで救援に来られない。敗色濃厚とみた旧幕府要人も去り始め、会津藩は孤立した。
 籠城から1カ月となる9月22日、松平容保(かたもり)、喜徳(のぶのり)の藩主親子は降伏開城を決意。北追手門に白旗が揚がった。鳥羽・伏見の戦い以降、会津藩の戦死者は約3000を数え、民間人も含めればさらに多いとみられる。城下は3分の2が焼けた。
 「いわれなき朝敵の汚名を着せられ、『全ての罪は自分にある』との降伏文書を書いた容保公の悲痛さはどれほどか」。子孫で会津松平家14代当主の松平保久(もりひさ)さん(64)は9月に会津若松市内であった講演で述べた。「戦後、容保公は戊辰戦争についてほとんど語らなかった。終生、責任を感じていたと思う」
 京都守護職として朝廷、幕府双方に尽くしながらも、幕末の激動に翻弄(ほんろう)された会津藩の戦いが、幕を下ろした。
(文・酒井原雄平/写真・鹿野智裕)


[鶴ケ城(若松城)] 1384年に葦名直盛が前身の黒川城を築き、伊達政宗も城主となった。1593年に蒲生氏郷が大改修し鶴ケ城と命名。1639年には天守閣が現在と同じ5層となった。1874年に石垣を残して取り壊されたが、市民の要望を受けて1965年に再建された。

[アームストロング砲] イギリス人ウィリアム・アームストロングが1855年に開発した大砲。後装式で砲身内にらせん状の溝が施してあり、射程や精度に大きな進歩をもたらした。分解して運搬できる。佐賀藩の使用が有名。


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2018年10月28日日曜日


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