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<奥羽の義 戊辰150年>(26)長岡藩民 命懸けの逃避行

長岡藩と会津藩を結ぶ八十里越の山道。長岡藩が敗れ、兵士や避難民であふれたという。今もなお人が踏み歩いた跡をとどめ、険しい山の中にひっそりと続く=新潟県三条市吉ケ平
八十里越を敗走した長岡藩の河井継之助は、会津藩の叶津番所にたどり着いた。ここからさらに会津城下を目指したが、傷が悪化して途中の塩沢村で最期を迎えた=福島県只見町叶津

◎第4部 会津戦争/只見・八十里越

 奥会津の福島県只見町叶津(かのうづ)と新潟県三条市吉ケ平を結ぶ八十里越という峠道がある。実際の距離は約8里(約32キロ)だが、1里が10里に思えるほど道が険しいことから、その名が付いたと言われる。
 1868年旧暦7月29日、奥羽越列藩同盟の一員である越後長岡城が新政府軍の攻撃で落城。焼け出された長岡藩民や仙台、米沢藩なども含む敗残兵が会津へ逃れようとこの峠に押し寄せた。1万5000人とも2万5000人とも記録される。
 女性や幼児、高齢者には厳しい道だった。大雨も追い打ちを掛けた。米沢藩の記録によると、疲れ果てた人々が道にうずくまり、石を枕に寝た。わらじがすり切れて血を流しながら歩く者や体力の限界からわが子を谷底に投げた母もいたとされる。
 峠を越えた先の只見は当時、戸数約300。そこに1万を超す避難者が殺到し、食糧危機が生じた。地元代官の丹羽族(にわやから)は調達に奔走したが万策尽き「十分な食糧を提供できない責任は自分にある」と切腹した。心打たれた村人はわずかに残した翌年分の種もみまで提供し、飢餓をしのいだと伝わる。
 只見町文化財調査委員で町史執筆者の飯塚恒夫さん(83)は「想像を絶する混乱だったはずだ。そんな中でも責任感を失わず、越後人を救った只見の親切心は『命の種もみ』として語り継がれている」と話す。
 峠を越えた中には長岡藩家老の河井継之助(つぎのすけ)もいた。戦闘で左脚に重傷を負い、自力で歩けず戸板で運ばれた河井は、山中で「八十里こしぬけ武士の越す峠」という「腰抜け」と「越後を脱出する」とを掛けた自嘲の句を詠んだという。
 女性、子どもを含め大勢が避難した長岡藩は「足手まといになる」と自害することの多い武士の世では異例に見える。河井継之助記念館(長岡市)の稲川明雄館長は「長岡藩は幼児も生き延びさせるようお触れを出している。死を美化せず、恥を忍んでも生き抜いて再起を図ろうとする発想は現代的だ」と指摘する。
(文・酒井原雄平/写真・岩野一英)

[長岡藩]越後7万4000石で藩主は譜代大名の牧野家。戊辰戦争では当初、中立の立場だったが、会津追討を強要する新政府と会談が決裂し、奥羽越列藩同盟に加わった。陥落した長岡城を一度は奪還するなど善戦したが敗れ、藩主一家は仙台へ逃れた。

[河井継之助]1827年長岡藩の中級藩士の家に誕生。藩の財政再建や兵制改革に手腕を発揮した。戊辰戦争では軍事総督として当時最新の手動機関銃ガトリング砲を用い、新政府軍に対抗した。八十里越から約2週間後、只見で没した。司馬遼太郎の小説「峠」の主人公としても知られる。


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2018年11月04日日曜日


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