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<東北の本棚>薩長中心の歴史観覆す

◎幕末会津藩松平容保の慟哭 鈴木荘一 著

 幕末、京都守護職になるはずの人物は、越前(福井県)藩主・松平春嶽であった。ポストを押し付けられた会津藩主・松平容保は一身に悲運を背負う。精神至上主義で尊皇攘夷(じょうい)論をあおった吉田松陰の行動は「狂気の沙汰」と断言。薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)中心の戊辰戦争の歴史観を、小気味よく切り捨てる。
 親藩の会津藩は本来、外様の伊達(仙台)、上杉(米沢)の抑えが役回りであった。ロシア船が近海に出没すると幕府は北方警備を急ぎ、会津、仙台、津軽、盛岡、秋田、庄内各藩に北方警備を命じた。会津藩は奥羽諸藩で最も多い1500人を派兵、樺太、利尻島、宗谷岬に駐留した。幕府の東日本、北日本の防衛の「要」が会津藩の役割だった。
 西日本防衛の要は譜代の筆頭、彦根藩(滋賀県)の井伊家だが桜田門外の変で、幕府大老を務めていた井伊直弼が暗殺された。では誰を京都守護職にすべきか。当然、親藩筆頭で将軍慶喜を補佐していた松平春嶽が、その任に当たるべきだった。しかし春嶽は「守護職を引き受ければ藩が全滅する」のが、最初から分かっていた。会津藩邸に乗り込んで容保に守護職を引き受けるよう直談判、一方で慶喜を将軍後継とすべく朝廷工作に走るなど、必要以上に政治的に動いた。「幕末の大混乱、流血のもとを作った男こそ春嶽」と著者は言い切る。
 吉田松陰は、オランダ語を解せず、数学もできない。自ら洋学と決別。「ペリー艦隊に乗り込んで日本刀の切れ味を見せてやりたい」と意気込む。それは明治維新後の帝国陸軍の対外思想に大きく影響した。根を攘夷思想に置きながら、海外に植民地を求めて軍拡路線に走った。その結果こそ、後の太平洋戦争であった。
 著者は1948年東京都生まれ。銀行勤務の後、歴史研究に専念。「幕末史を見直す会」代表を務める。
 勉誠出版03(5215)9021=864円。


2018年11月11日日曜日


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