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<奥羽の義 戊辰150年>(27)降伏直後に埋葬 記録発見

会津藩の降伏後、各地に埋葬されていた戦死者らは改めて寺院に葬られた。阿弥陀寺では、幾重にも遺体が積み重ねられたらしい。周囲より1メートルほど高くなっている墓所に、紅葉から漏れた秋の日が差す=会津若松市七日町
会津藩降伏後の戦死者埋葬を記録した「戦死屍取仕末金銭入用帳」(野口さん提供)

◎第4部 会津戦争/戦死者

 戊辰戦争で戦死した会津藩士は、会津若松市の阿弥陀寺や長命寺に眠る。両寺では、公益財団法人「会津弔霊義会」が毎年春と秋の彼岸に慰霊祭を開く。
 会津地方では1868(明治元)年旧暦9月22日の会津藩降伏後、藩士らの遺体は新政府に埋葬を禁じられ、半年もの間、鳥獣に食い荒らされる状況に置かれたと伝えられてきた。市民が長州藩(山口県)に今も複雑な感情を抱く一因と言われる。しかし昨年、降伏直後に埋葬されたことを示す史料「戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳」が見つかった。
 解読したのは会津若松市史研究会副会長の野口信一さん(69)。藩士子孫が若松城天守閣郷土博物館に寄贈した史料に含まれていた。
 入用帳によると、新政府は降伏10日後の10月2日、埋葬を命令。会津藩士4人が中心となり567人を64カ所に埋葬した。作業に延べ384人を動員し、74両(約450万円)の経費を要したとある。NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公山本八重の父で、大砲隊を指揮した山本権八とみられる遺体の記述もある。
 新政府は69年旧暦2月、新たに発見された遺体も含めて1281人を阿弥陀寺に改葬するよう通達している。「これが『遺体を半年も放置した』と誤って伝わったのではないか」と野口さん。新政府が当初、改葬先に罪人塚を指定し、藩士が撤回を求めて抗議したことも埋葬許可の嘆願と誤解されたとみる。
 昭和40年代以降、敗れた側の歴史研究が進み、会津藩の悲劇や正当性を描いた小説やエッセーが発表される中、埋葬禁止説が定着していったと考えられるという。
 市民には「にわかに信じられない」との声もある。野口さんは「明確な記録がある以上、認識を改めるべきだ。正しく過去を学び、未来に生かしてほしい」と話す。
 埋葬が降伏直後に行われていたとしても、多くの藩士が犠牲となった事実は変わらない。市内の東明寺には新政府側の戦死者150人が眠る西軍墓地もあり、会津で両軍が血を流した悲惨さを伝えている。
 (文・酒井原雄平 写真・岩野一英)

[阿弥陀寺]1603年に良然が開山。戊辰戦争の戦死者を埋葬した東軍墓地や、新選組三番隊長の斎藤一(藤田五郎)、幕末の会津藩最強の武芸者と称された黒河内伝五郎の墓がある。戊辰の戦火で本堂が焼失し、1870年に鶴ケ城の櫓(やぐら)だった「御三階(ごさんがい)」を移築して仮本堂とした。当時の鶴ケ城の遺構として唯一現存する建物。外観上は3階建てだが内部は4層になっており、城では密議の場として使用されたという。寺には大仏もあったが太平洋戦争で供出され、現在は台座のみが残る。


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2018年11月18日日曜日


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