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<奥羽の義 戊辰150年>(28)仙台藩使節12人襲い殺害

列藩同盟離脱を阻止しようと、仙台藩が派遣した藩士の首がさらされた五丁目橋のたもと。地元の人たちが観音像を建て、血なまぐさい事件の犠牲になった藩士を弔う=秋田市大町
西来院近くに立つ仙台藩殉難碑の前で、非業の死を遂げた使節12人の冥福を祈る慰霊祭出席者=7月4日

◎第5部 列藩同盟崩壊/秋田藩離脱

 秋田市の歓楽街、川反(かわばた)の入り口に架かる五丁目橋のたもとに、ネオン灯とは趣を異にする観音像が立っている。戊辰戦争のさなか、仙台藩の使節12人が秋田藩士に殺害され、首をさらされた現場だ。
 奥羽越列藩同盟軍が南東北の白河や磐城で新政府軍と激戦を繰り広げていた1868(慶応4)年旧暦7月4日、北東北で事態が急変した。秋田藩が同盟を離脱し、新政府側に付いたのだ。
 経緯はこうだ。同年5月、仙台藩は、監視下に置いていた奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府の九条道孝総督を新政府に奪還された。東名浜(東松島市)から上陸した佐賀藩士前山清一郎らが仙台藩首脳と面会し、「奥羽の実情を京都に報告させる」との口実で秋田に連れ出すことを認めさせたからだ。
 総督を迎えた秋田藩内では勤皇派が勢力を盛り返し、同盟の離脱を求めて藩首脳の屋敷を取り囲んだ。慌てた仙台藩は翻意させようと、志茂又左衛門ら使節12人を派遣したが、秋田藩砲術所の22人が7月4日、旅館を夜襲し殺害。五丁目橋に首をさらした。
 観音像は地元飲食店有志による「川反先人慰霊委員会」が2000年に建立した。台座には伊達家の家紋「竹に雀」が刻まれている。会長のバーテンダー中島康介(やすすけ)さん(84)は「不幸な歴史が繰り返されないように語り継ぎたい」と話す。
 12人が埋葬された秋田市寺内の西来院の近くには1888(明治21)年、勝海舟の揮毫(きごう)で「仙台藩殉難碑」が建立された。毎年、命日には慰霊祭が開かれる。節目の今年も10人が参加した。志茂又左衛門の子孫、仙台市若林区の榎戸通夫さん(79)は「秋田の人が供養を続けてくれ、感謝している」と語った。
 同盟を離脱した秋田藩は新政府軍の先陣として、庄内、仙台、盛岡各藩などと砲火を交えることに。史上初めて奥羽が一つとなった列藩同盟はあえなく崩壊し、戊辰戦争は東北の大藩同士が争い、混迷の度を深めていく。
 (文・酒井原雄平 写真・岩野一英)

[秋田藩]石高20万で藩主は佐竹家。同藩出身の国学者平田篤胤(1776〜1843年)の思想が幕末の尊皇運動の源流となるなど元々勤皇派が多く、奥羽列藩同盟加入を巡っても藩論が割れていた。仙台藩使節の殺害計画を事前に察知した同盟重視派の首脳は阻止を検討したともいわれるが、結局決行された。同調して本荘藩(2万石)、矢島藩(8000石)も同盟を離脱。秋田藩は戦後、新政府から2万石の賞典禄(ろく)を与えられたが、戦費や被害に対して見合わないとして藩内に不満の声が上がったとされる。


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2018年11月25日日曜日


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