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<奥羽の義 戊辰150年>(29)庄内藩、新政府軍挟み撃ち

夕焼けを照り返す神宮寺岳。麓をゆったり流れる雄物川を挟んで、仙台、庄内藩の列藩同盟軍と、同盟から離脱した秋田藩の軍が対峙し、激戦を繰り広げた=大仙市神宮寺
角間川の戦いを描いた「戊辰戦争絵巻」(致道博物館蔵)

◎第5部 列藩同盟崩壊/秋田戦線

 秋田県南の大仙市は穀倉地帯の仙北平野が広がり、雄物川、玉川、横手川など舟運の拠点として古くから栄えた。面積867平方キロメートルと東京23区よりも広い市内各地は1カ月に及ぶ激戦の舞台となった。
 1868(慶応4)年旧暦7月4日に奥羽越列藩同盟を離脱した秋田藩に対し、庄内、仙台、一関など同盟諸藩は一斉に侵攻を開始。秋田、矢島、薩摩、長州、佐賀各藩などの新政府軍は神宮寺(大仙市)に本陣を置き、これを迎え撃った。
 同盟軍は8月13日、仙台兵を先陣に河港の角間川地区を攻めた。「秋田兵は街道に大砲を据えて待ち構え、阻止を図った」。現地を案内してくれた大仙市教委文化財保護課の高橋一倫主席主査(40)が説明する。
 しかし庄内兵の援軍も得た仙台兵に秋田兵は劣勢となり敗走。追撃され、横手川で多数が溺死した。庄内藩の従軍者が描いたとみられる「戊辰戦争絵巻」(鶴岡市の致道博物館蔵)にその様子が描かれている。
 北上した同盟軍は、雄物川を挟んで新政府軍本陣と向き合った。「新政府軍は川を防衛線と定め、持久戦に持ち込んだ」(高橋さん)。雄物川は水深がある上、蛇行していて容易には渡れない。神宮寺岳(277メートル)も天然の要害となり、両軍は膠着(こうちゃく)状態となった。
 局面を変えたのは中老酒井玄蕃(げんば)率いる庄内藩2番大隊だった。元号が明治に変わった9月8日、正面突破と見せかけて迂回(うかい)した400人が神宮寺から約13キロ西の小種(大仙市協和)を渡河。日本海側から来た4番大隊と合流し、神宮寺の背後を取った。挟み撃ちされた新政府軍は角館に退却。間もなく終戦を迎えた。
 小種周辺は戊辰公園となり、秋田藩隊長梅津千代吉ら戦死者の慰霊碑が立つ。大仙市内には他にも角間川をはじめ鎮魂碑や墓が多数ある。「激戦地だったことを知る人は地元でも多くない」と高橋さん。7月に戦跡を巡るツアーを実施するなど、節目の今年を歴史継承の好機と捉えている。
 (文・酒井原雄平 写真・鹿野智裕)

[庄内藩]石高17万の譜代大名で藩主は徳川四天王の家系である酒井家。最上家の改易に伴い1622年に酒井忠勝が信州松代から転封して成立。幕末期に幕府から江戸市中取り締まりを命じられ、治安維持を担った。1868年1月(慶応3年12月)、幕府を挑発しようと略奪や強盗を繰り返す浪士の拠点となっていた三田の薩摩藩邸の焼き打ちを決行。これが鳥羽・伏見開戦の発端となり、戊辰戦争では新政府から朝敵とされた。当時の藩主は11代忠篤(ただずみ)。同じく朝敵とされた会津藩と「会庄同盟」を結んだ。


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2018年12月02日日曜日


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