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<奥羽の義 戊辰150年>(31)鳥海の頂越えて奇襲作戦

山形と秋田の県境に雄大な山容を広げる鳥海山。高さ2000メートルを超えるような山頂近くの山道を抜けて、庄内藩の新徴組が矢島藩を奇襲した=秋田県由利本荘市矢島町
湯田川温泉には戦死した隊士や家族計20人の墓がある=山形県鶴岡市

◎第5部 列藩同盟崩壊/新徴組

 1868(慶応4)年旧暦7月28日、庄内藩の部隊「新徴(しんちょう)組」が鳥海山(2236メートル)を一気に下り、奥羽越列藩同盟を離脱した矢島藩の八森城を急襲した。
 よもや険山を越えては来まい。油断していた矢島藩はなすすべなく敗れた。万年雪の山頂で風雨に耐えて一夜を明かした新徴組の灯火を、八森城下の人々は鳥海山噴火の前兆と勘違いしたと伝わる。

 新徴組は、新選組とともに63(文久3)年、庄内出身の志士清河八郎が募った浪士組が母体。両者はいわば「兄弟」の間柄だ。清河とたもとを分かった近藤勇らが京都で新選組となる一方、清河が暗殺された後、江戸に移った集団が新徴組となり庄内藩に預けられた。新選組沖田総司の義兄林太郎は新徴組に参加した。
 戊辰戦争前は江戸の巡回警備を任務とした。警察官を「お巡りさん」と呼ぶのは、一説には新徴組が語源という。ただ、そうした治安活動が皮肉にも戊辰戦争の引き金を引いてしまう。68年1月(慶応3年12月)、幕府を挑発しようと江戸で騒乱を繰り返す三田の薩摩藩邸に対し、新徴組ら庄内藩兵が焼き打ちを決行。これを機に、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、庄内藩は新政府から朝敵に指定された。
 江戸を引き揚げた新徴組は湯田川温泉(鶴岡市)を拠点に、偵察活動や庄内藩占領地の警備に従事した。鶴岡市郷土資料館主査の今野章さん(50)は「主力大隊を補完する遊軍として重宝された」と説明する。戦争が本格化すると4番大隊に属し、秋田、新潟方面で戦った。

 湯田川温泉では隊士と家族約450人が宿屋と民家計37軒に分宿し、本部を隼人旅館に置いた。同旅館には今も隊士の書簡や弾薬箱が残る。「弾薬箱は戊辰戦争後、旅館の米びつに使われました」。経営者の庄司庸平さん(39)が教えてくれた。同温泉には隊士や家族の墓もある。
 新徴組は、新選組ほどの知名度はない。庄司さんは、新徴組が戊辰戦争で果たした役割から「もっとメジャーになっていい」と言う。
(文・酒井原雄平/写真・鹿野智裕)


[清河八郎]幕末の志士。1830年、庄内藩領清川村(現在の山形県庄内町)生まれ。18歳で江戸に出て学問と剣術を探究する。桜田門外の変を契機に尊皇攘夷運動に加わり、浪士組を結成するが、近藤勇らと対立して分裂。63年に幕府の刺客に暗殺された。

[湯田川温泉]鶴岡の奥座敷と呼ばれ、湯野浜温泉、あつみ温泉と並ぶ庄内3名湯の一つ。712(和銅5)年、傷を負った一羽のシラサギが舞い降り、湧いていた湯で傷を癒やしたのが始まりとされる。硫酸塩泉で毎分約1000リットルの豊富な湧出量を誇る。


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2018年12月23日日曜日


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