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<つながる 気仙沼大島大橋>(2)悲願/半世紀の思いやっと

浅野知事(右端)に架橋の早期実現を求める島民たち=2000年11月24日、宮城県庁

 宮城県気仙沼市の離島・大島と本土を結ぶ気仙沼大島大橋(356メートル)が4月7日に開通する。東日本大震災からの復興の象徴とされる橋の開通は地元の長年にわたる悲願であり、島の生活は大きく改善する。一方、観光面の受け入れ態勢の整備や島内の防犯対策など課題も残る。架橋実現までの歴史を振り返りながら、住民の期待や不安を探る。(気仙沼総局・大橋大介)

<知事に年賀状>
 「あけましておめでとうございます 一日も早く橋を架けてください。よろしくお願いします」
 気仙沼市の離島・大島の住民たちが、当時の宮城県知事浅野史郎さん(70)に架橋の早期実現を願う年賀状を初めて出したのは1994年の正月だった。
 知事に住民一人一人の思いを伝えようと有志が発案し、島民に協力を呼び掛けて始まった。最初は50通程度。年々枚数は増え、多い時は600通を超えた。
 長年にわたり架橋促進の活動に関わった大島婦人会の前会長小野寺正子さん(76)も年賀状を出した一人。「とにかく橋を早く架けるために、いろんなことを試みた」と懐かしむ。
 離島での不便な生活を強いられてきた島民は、架橋実現のために涙ぐましい努力を続けてきた。県内各地で署名を集め、国や県には何度も要望した。
 「大島架橋促進」と書かれた大量ののぼり旗を掲げながら大挙して県庁に出向き、県職員を驚かせたこともあった。2000年11月、当時の島の人口の約5%に当たる180人がバス4台に分乗し、島から4時間かけて県庁を訪ねた。
 「命に関わる問題だ」。浅野さんに直接、建設促進を訴えた。その2カ月後、県は初めて橋の完成目標を「18年度」と明言した。
 「島のマラソンに参加すると沿道から必ず『知事さん、橋、お願いね』と声を掛けられた。年賀状は記憶にないが、島民の思いは常に感じていた」と浅野さん。熱意は県政トップにも確実に伝わっていた。

<賛成へ風向き>
 架橋事業が県政発展計画に位置付けられたのは1967年。当初は交通量の増加や環境破壊などを心配し、慎重な島民も多かった。
 73年から5期、気仙沼市長を務めた菅原雅さん(87)は島が二分するのを恐れ、就任当初は賛成、反対を明言しなかった。だが、「島の発展のためには絶対に橋が必要だというのが本音だった」と明かす。
 賛成、反対の住民団体が相次いで設立された78年の市議会12月定例会。菅原さんは態度を明確にした。
 「島民からノーと出たら、ノーをイエスに変える努力をする」。賛否両論ある中での答弁に批判もあったが、菅原さんは「トップの姿勢を示すべき時期だと決断した」と振り返る。
 当時、島選出の市議として架橋事業を推進した水上忠夫さん(86)は「あの答弁が大きかった」とみる。市長が態度を鮮明にし、島の風向きは賛成へと傾いた。
 水上さんは議員を引退後、橋が架かるまでの歩みを伝える記録を8年かけてまとめた。橋がない暮らしの悲哀や住民運動の歴史、行政の動きなどを網羅した史料は478ページにも及ぶ。「橋に関わった全島民の思いを後世に残しておきたかった」と説明する。
 4月7日、半世紀にわたる島民の悲願がかなう。水上さんは「熱心に活動しながら、橋を渡れずに亡くなった島民も多い。待ちわびた日をようやく迎えることができる」と話した。


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2019年01月11日金曜日


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