宮城のニュース

<つながる 気仙沼大島大橋>(3)使命/孤立解消、復興の象徴

カーフェリーなどが打ち上げられた浦の浜港=2011年4月5日、気仙沼市の大島

 宮城県気仙沼市の離島・大島と本土を結ぶ気仙沼大島大橋(356メートル)が4月7日に開通する。東日本大震災からの復興の象徴とされる橋の開通は地元の長年にわたる悲願であり、島の生活は大きく改善する。一方、観光面の受け入れ態勢の整備や島内の防犯対策など課題も残る。架橋実現までの歴史を振り返りながら、住民の期待や不安を探る。(気仙沼総局・大橋大介)

<電源車入れず>
 海岸から約20メートルの場所にあった自宅の前の道路に、真っ黒い塊が流れ込んできた。すぐに自宅の裏山に駆け上がった。
 「例えは悪いが、西部劇で見た黒い牛の群れが走り抜けるような、ものすごい勢いだった」。気仙沼市の離島・大島の玄関口として飲食店などが立ち並んでいた浦の浜地区。東日本大震災当時、地区の自治会長だった菊田武利さん(78)は津波にのまれる地域の惨状を目の当たりにした。
 1960年のチリ地震津波では床下浸水だけだった自宅が全壊。家族は無事だったが、地区の仲間8人が犠牲となった。高台に自宅を再建した菊田さんは「チリ地震を経験して『大したことないだろう』と思っていた。きれいさっぱりなくなったよ」と振り返る。
 津波は東北最大の有人島に大きな被害をもたらした。市の調べでは犠牲者は33人、被災家屋は全壊776棟を含む1404棟で島全体の約4割に上った。
 「電源車を島に持って行く」。島選出の気仙沼市議小野寺修さん(65)の携帯電話に、東北電力気仙沼営業所の幹部から連絡が入ったのは震災から8日後、2011年3月19日のこと。
 電気がない生活が続いた島民にとって必要な支援だったが、小野寺さんは諦めた。「無理だ。島に船が入れない。運べないよ」。電源車が島に入ったのは震災から16日後だった。
 本土と島を結ぶフェリーなど7隻が使用不可能となり、船着き場はがれきで埋まった。島は孤立し、電気や水も断絶。島民は一時、プールや沢の水を浄化してしのいだ。

<必要性を痛感>
 島在住で妻を津波で亡くした気仙沼市大島出張所長の菊田隆二さん(58)は「橋があれば歩いて物を運ぶことができたし、人の行き来ができた。島は絶対に孤立しなかった」と指摘する。震災は島に多くの犠牲を出すと同時に、本土と島を結ぶ橋の必要性を痛感させる出来事となった。
 「復興のシンボルとして着実に進める」。震災から4カ月後の7月、気仙沼市内であった架橋事業の住民説明会で宮城県の担当者が事業の継続を強調した。県が初めて「復興のシンボル(象徴)」のフレーズを公の場で使った日でもある。
 県によると復旧、復興事業で「象徴」と位置付けたのは大島大橋の架橋事業だけ。県の方針は、震災の影響で架橋の延期も覚悟した島民の不安を解消した。
 県道路課長の籠目勇一さん(55)は、震災当時も架橋事業を担当する同課にいた。島の孤立は、「命の橋」をつなぐ使命感を県に強く植え付けたという。
 籠目さんは気仙沼市出身。実家も被災した。「震災を乗り越え、島民の長年の期待に応える意思表示として『象徴』や『シンボル』という言葉を使った。われわれ自身を奮い立たせる力にもなった」と明かす。
 震災から8年。復興の象徴となる橋を渡れる日がようやく訪れる。


関連ページ: 宮城 社会

2019年01月12日土曜日


先頭に戻る