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<奥羽の義 戊辰150年>(34)新政府兵に発砲 領主切腹

新政府軍の発砲に端を発し、領主が切腹に追い込まれた「白鳥事件」。舞台となった宮城県柴田町の船岡城址公園がライトアップされると、赤く染まった白石川にハクチョウが浮かび上がった
昔ながらの「白鳥信仰」が根付いている宮城県柴田町の白鳥(しらとり)神社。絵馬にも羽を広げたハクチョウが描かれている=柴田町船岡西

◎第6部 仙台藩降伏/白鳥事件

 新政府軍が仙台に駐屯していた1868(明治元)年旧暦10月、敗残の仙台藩を揺るがす大事件が同藩船岡(現在の宮城県柴田町)で起きた。後に「白鳥(はくちょう)事件」と呼ばれるこの出来事は、柴田町史によると次の通りだ。
 船岡と隣り合う亘理に広島藩の兵が進駐してきた。阿武隈川を渡って巡回に来ていた船岡で、面白半分に銃でハクチョウ狩りを始めた。一帯にはハクチョウを神の使いとあがめる白鳥信仰が根付いている。住民たちは「撃たないで」と何度も懇願したが、兵たちは耳を貸さない。
 事件の日も、兵たちは舟で来て大沼(現在の陸上自衛隊船岡駐屯地)でハクチョウを撃った。激高した船岡領主柴田家の家臣森玉蔵と小松亀之進が後を追い、帰る舟に向かって発砲。1発が舟べりに当たった。兵たちはすぐに被害を訴え出た。仙台藩は在仙の新政府参謀から、犯人逮捕と責任を取るよう求められた。
 柴田家は2人をただちに捕らえたが、森は脱走。参謀から「3日以内に捕らえろ」と厳命されて追い詰められた柴田家は、身代わりに森の義兄文治を斬首し、森の首として差し出した。事件は落着したが、責めが伊達本家に及ぶことを恐れた藩中枢の意向により、領主の柴田意広(もとひろ)は切腹させられた。
 柴田町史の編集にも携わった同町の郷土史家日下龍生さん(72)は「本当に面白半分で狩りをしたかは疑問も残る」と話す。
 日下さんによると、広島藩の正史「芸藩志」では、当初進駐したのは「神機隊」。厳しい軍律で知られ「勝手な行動を取るとは考えにくい」と指摘する。交代で来た「新整組」は実戦経験がなく「敵地でふざけて銃撃する余裕はない」と日下さん。「訓練の銃声や掛け声を狩りと誤った可能性はないか」と慎重にみる。
 ただ発砲の原因が何にせよ、領主に責任が及ぶほどのことなのか。当時誰もが疑問に思ったに違いない。まさに「勝てば官軍 負ければ賊軍」。新政府に気を使わざるを得ない仙台藩の悲哀を象徴する一件だ。(文・酒井原雄平 写真・鹿野智裕)

[白鳥信仰]宮城県南部には古くからハクチョウを神の使いとし、落ちている羽を拾ったら神社に供えるなどの風習があった。起源は諸説あり、白鳥明神をまつる蔵王町の刈田嶺神社、大河原町の大高山神社のほか、白鳥神社が白石市、柴田町、村田町に造られた。
 柴田家 舟岡要害(現在の船岡城址公園)を居館とした仙台藩の重臣。柴田外記(げき)が中心人物の一人となった1671年の伊達騒動(寛文事件)は歌舞伎「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」や山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」の題材になった。


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2019年01月13日日曜日


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