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<奥羽の義 戊辰150年>(35)徹底抗戦派が石巻に集結

仙台藩の降伏直後、石巻に4000人を超える旧幕府軍が集結した。新政府軍との戦闘が始まるのでは−。港町は不穏な緊張感に包まれた=石巻市の日和山公園から同市中瀬を望む
石巻市住吉町にかつてあった旧毛利屋敷。老朽化のため2008年に解体され、現存していない(阿部和夫さん提供)

◎第6部 仙台藩降伏/遅過ぎた榎本艦隊

 仙台藩が新政府に降伏する直前の1868(慶応4)年旧暦8月26日、旧幕臣の榎本武揚率いる海軍が松島湾に入港した。奥羽越列藩同盟を支援するためだった。
 6日前に8隻で江戸・品川沖を出港した榎本艦隊は房総沖で暴風雨に遭い、咸臨丸など2隻を失った。難を逃れた旗艦の開陽など6隻も破損し、修理が必要だった。

 艦隊は多数の砲門を備え、兵数は1500。さらに会津から新選組副長の土方歳三、旧幕府軍の伝習隊や彰義隊ら各戦線の敗残兵、フランス人の軍事顧問ブリュネら、新政府との徹底抗戦を主張する集団が仙台に続々と集結し始めた。
 9月2日、榎本と土方は仙台城で藩主の伊達慶邦と対面。榎本は「奥羽の地は日本全土の6分の1を占め、兵数は約5万に上る。新政府など恐れるに足りない」と力説した。
 しかし劣勢の仙台藩は藩論が降伏に傾き、主戦派は失脚していた。榎本と議論した勤皇派の執政遠藤文七郎は「官軍に抵抗するなど大逆無道。今は伊達家の危機を救うとき。諸君も帰順すべきだ」と一蹴。土方に対しては「斗屑(くず)の小人。論ずるに足らず」と酷評した。
 榎本らの到着は遅過ぎたのだ。
 9月15日、仙台藩降伏。榎本らは同藩に見切りをつけ、蝦夷地(北海道)行きを視野に石巻へ移動、豪商の毛利屋理兵衛の屋敷に寄宿した。

 石巻市の旧家の古文書「萬方記」によると、石巻に集結した兵らは約4300人。桑名藩の「谷口四郎兵衛日記」には、土方や兵たちがブリュネの指導下、市中心部の日和山(現在の日和山公園)一帯で軍事演習を行ったと記されている。降伏した仙台藩に対する怒りのデモンストレーションだったとも言われる。「戦争が始まるのか」。大砲の音に住民はおびえ、近隣に家財を避難させる者もいた。
 榎本らの勢力がもし石巻で新政府軍と衝突したら−。既に降伏した仙台藩首脳にとって、彼らは厄介な存在となった。
(文・酒井原雄平/写真・鹿野 智裕)

[土方歳三]新選組副長。1835年、現在の東京都日野市で富農の四男として誕生。剣術の出張稽古で訪れた局長の近藤勇と親交を深め、63年、近藤らと京都で新選組結成。草創期からの隊士として池田屋事件などに関わった。69年、箱館五稜郭の戦いで戦死。

[榎本武揚]1836年に幕臣の次男として誕生。62〜67年オランダ留学。帰国後、幕府海軍副総裁。戊辰戦争では箱館で新政権樹立を宣言するが、69年、五稜郭の戦いに敗れて降伏。72年特赦で出獄後、新政府に登用され、北海道開拓などに尽力し、諸大臣を歴任した。1908年死去。


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2019年01月20日日曜日


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