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<安住の灯 震災列島に生きる>第1部 8度目の冬(1)わが家へ かなわぬ夢

妻がいなくなった仮設住宅の居間で、今春完成する自宅の図面を見詰める政志さん=気仙沼市笹が陣

 東日本大震災の被災地では、なお1万人以上が仮設住宅に身を置き、8度目の冬を迎えた。自宅の再建や災害公営住宅に入居した後も、新生活を取り巻く不安は尽きない。東京電力福島第1原発の事故に見舞われた周辺は、帰還が遠くにかすむ。
 地域コミュニティーは、応急期から復興期への変化の中で分断を余儀なくされた。古里に帰りたい。安らぎの場を取り戻したい。被災者はささやかな灯(ともしび)を胸に抱き続ける。
 「3.11」がまた巡ってくる。4月には「災」の時代と呼ばれた平成が幕を閉じる。生きる礎をどう支えるべきか。震災被害に遭った熊本県、北海道を結び、改めて住まい復興のプロセスを問い直したい。
 第1部は宮城、岩手両県などに残された仮住まいの地を訪ね、それぞれが重ねた長い歳月をたどる。
(「震災と住まい」取材班)

◎第1部 8度目の冬(1)/新居入れず逝った妻

 妻がいなくなり、一人で新年を迎えた。仮設住宅の居間で遺影に話し掛ける。
 「おい、きょうは電気屋と水道屋が工事に来ていたぞ。もうすぐ家ができるから、それまで待ってろよ」
 宮城県気仙沼市の気仙沼公園仮設住宅に暮らす清水政志さん(84)。昨年12月に建築が始まった自宅の様子を、82歳で亡くなった妻道子さんに毎日報告する。
 「幸町の家に帰りたい」−。道子さんの切なる願いをかなえられなかった。東日本大震災の津波で中心部の幸町地区にあった家が流失。7年が過ぎた昨年5月22日、仮住まいを抜け出せないまま、道子さんは病でこの世を去った。
 仏壇に3枚の遺影が並ぶ。同居していた次男卓さん=当時(44)=が津波にのまれ、13年には母ちやさんが100歳で亡くなった。「仮設にいる間に仏を三つ出してしまって」。政志さんは、やるせない思いをかみしめる。
 「持ってあと3、4年です」。道子さんを突然の病が襲ったのは、震災翌年の12年冬だった。医師から難病指定の重度の肝硬変だと告げられ、入退院を繰り返す闘病生活が始まった。
 当初、家を建てる選択肢はなかった。「夫婦2人になっちまったんだから、災害公営住宅で終わりにすっかな」。ちやさんも亡くなり、16年春に完成した幸町の災害公営に移ると決めた直後だった。
 「お父さん、ちょっと話がある」。災害公営住宅の本申し込みの日。布団の中から道子さんが呼んだ。
 「私が観音寺の山のお墓に行く時は、自分の家から送り出してほしいの。亡くなった息子やばあちゃん(ちやさん)も家を建ててほしいと思っているはず」
 亡くなったら自分の屋敷から菩提(ぼだい)寺の墓に入りたい。余命いくばくもない妻の願いが胸に突き刺さった。
 「ここまで言われちゃ建てるほかねぇ」。自宅再建を決意し、16年に工務店と契約を結んだ。だが、17年度になっても着手できない。幸町を含む南気仙沼地区の土地区画整理事業の宅地造成が難航し、一部で最長2年遅れる見通しになった。
 時間だけが過ぎ、道子さんは徐々に弱る。幻覚症状を起こし、意識がもうろうとする。政志さんが車を飛ばし、病院で点滴を打ってもらうと「あれ、私どうしてここにいるんだべ」とわれに返る。仮設より、病院にいる時間が増えていく。
 「これだけ待ってるのに、いつになったら家が建てられるのかねぇ」。食事中、口癖のように繰り返せば「うるせぇぞ、毎晩毎晩同じ事」。声を荒らげる政志さんも必死だった。「いつまでかかってんのや」。区画整理事業を進める都市再生機構(UR)の説明に我慢できず、担当者を怒鳴ったこともあった。
 道子さんは入院先で息を引き取った。「家に入るまで頑張んなくちゃなんねぇぞ」。苦しむ妻の姿に胸がつぶれる思いだったが、懸命に声を掛けた。道子さんも「お父さん、頑張るから」。最期の最期まで応えようとした。病室の窓から家を建てる方向を眺めては、帰心を募らせていた。
 宅地が引き渡されたのは道子さんの死から5カ月後の昨年10月末。「土地が戻っても、かかあはもういない。1週間でも2週間でも家に入れたかった。ただただ、悔しい」。ほほ笑む妻の遺影に向かって「この野郎、にやにや笑ってる場合じゃねえぞ」。さみしさと悔しさが入り交じる。
 昨年暮れ、上棟式を済ませた。家の図面を見詰め、「俺一人住むには広すぎるな」とつぶやく。「かかあが待ち望んだ家が出来たら、いっときも早くお骨を持って入るのが俺の務め。一周忌に合わせて墓に納骨してやろうと思ってさ」
 仏壇には道子さんの遺骨を今も安置している。春になれば、新しい家の敷居をまたぐ日が訪れる。


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2019年01月21日月曜日


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