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<阿武隈川物語>(23)「最果て」大和と密接

どんと祭で熱日高彦神社をお参りする家族連れ。伊具の古社は森厳とした雰囲気に包まれた
台町古墳群から出土した女性の埴輪の複製=丸森町まるもりふるさと館

 東北の入り口である福島県南から北上する阿武隈川流域は古来、中央による東北支配の最前線となった。大和朝廷の蝦夷征服はじめ、源頼朝の奥州合戦、明治維新まで。時代の転換点となった舞台を歩き、近代までの歴史を考える。(角田支局・会田正宣)

第5部 近代まで(1)古代(上)

<信仰で蝦夷支配>
 「おひたかさん」の名で親しまれる、阿武隈川東岸の角田市島田の熱日高彦(あつひたかひこ)神社。ヤマトタケルノミコトが東征の折に創建し、1900年の伝統があるという伊具地方(角田市と宮城県丸森町)の古社だ。14日のどんと祭は和紙の灯籠が奉納され、神秘的な雰囲気をいっそう増した。
 旧社殿は西向きだったと伝えられる。東向きだと、太陽神の天照大神に歯向かう形になる。大森山から昇る朝日の威光を背に、阿武隈川沿いの平野へ西向きに建てられたという。
 黒須貫(とおる)宮司(54)は「熱は位の高さを示し、日高は蝦夷の流れで、蝦夷に敬意を表した。東北には大和が蝦夷の神を取り込み、蝦夷の聖地に神社を設けた例が少なくない。力より信仰で支配した」と想像する。
 宮城県地名研究会の太宰幸子会長(75)=大崎市=は、伊具を阿武隈川に関わる地名と考える。「『い』は水に通じる。水の入り口を示す『いぐち』が、伊具の由来ではないか。丘陵のへりを流れて平野に出てくる阿武隈川の地形に関係があると思う」と推量する。
<制度転換が起因>
 伊具は阿武隈川と切っても切れない。丸森町にある5〜7世紀の「台町古墳群」は、伊具国造の墓とみられる。国造は大和と盟約を結ぶ地方豪族で、「伊久(具)国造」は文献に残る最北の国造だ。
 古墳群の一つから出土した、「はそう」と言うつぼをささげ持つ女性の埴輪(はにわ)は、頭部を丸く作り、目や口をくりぬく畿内の技術が用いられている。板状の面に目鼻を付けた東国の埴輪に比べ、精巧さが際立つ。
 国造廃止と律令(りつりょう)制導入=?=で、伊具郡衙(ぐんが)が置かれた跡とされる角田郡山遺跡(角田市)では、かまどに掛ける部分がある土器「羽釜」が出土した。畿内にほぼ限定された朝鮮半島由来の形式で、大和に結びつく人物が持ち込んだ可能性がある。
 当時の「最果て」である伊具と中央の関わりについて、宮城県多賀城跡調査研究所の古川一明所長(60)は「阿武隈川は古い時代の国境線で、伊具は北限の最前線だった。地方分権だった国造から中央集権の律令制へ、がらりと支配形態が変わるときに、この地が重視された」と解説する。
 ただ、制度転換を境に蝦夷とのあつれきは高まる。多賀城国府の前の陸奥国府だった仙台市太白区の郡山遺跡には、蝦夷に服属を誓わせる儀礼の場として石組みの池があった。飛鳥石神遺跡(奈良県)にある石組み池と同じ形式とされる。
 古川所長は「蝦夷への差別が増幅された。阿武隈川や名取川以北が、蝦夷と大和がせめぎ合う緩衝地帯になった」と指摘する。

[国造廃止と律令制導入]国造と緩やかな同盟を組んで地方を治めていた大和朝廷は、大化の改新(645年)後、国造を廃止し律令制を導入。724年、多賀城に陸奥国府が設置される。その前後から蝦夷の抵抗が激化し、780年の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の反乱では多賀城が焼き打ちされた。


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2019年01月22日火曜日


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