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<阿武隈川物語>(24)支配の拠点 川沿いに

人忘れずの山(右)と人なつかしの山(左)に挟まれた阿武隈川沿いの白河官衙遺跡群周辺
駅家の可能性が高い原遺跡。奥が阿武隈川(岩沼市教委提供)

◎第5部 近代まで(2)古代(下)

<最多の17郷管轄>
 「人忘れずの山」と「人なつかしの山」。こんもりした二つの山が、福島県白河市と福島県泉崎村の境を流れる阿武隈川を挟み、関所を構えるようにそびえる。
 一見して交通の要衝と分かる場所に古代の郡役所、白河官衙(かんが)が設置された。官衙跡の関和久遺跡が泉崎村側に、付属寺院である借宿廃寺跡が白河市側にある。
 白河郡は陸奥国36郡のうち最多の17郷を管轄した。近隣の谷地久保古墳には「横口式石槨(せっかく)」という石のひつぎがあり、奈良県の中尾山古墳に類似するとされる。
 白河官衙遺跡群の調査に当たってきた白河市建設部の鈴木功理事(57)は「都の権力者に近い人物が治めた証拠。中央の東北経営にとって、白河は絶対に押さえなければならない地だった」と強調する。
 白河官衙の物資輸送を支えたのが、阿武隈川の水運だ。関和久遺跡には租税の米を納めた正倉院跡があり、周囲を溝が巡っていた。北側には溝の代わりに阿武隈川から引いた運河跡が確認されており、舟が使われたと推測される。
 7世紀末の屋根瓦とされる「複弁蓮華(れんげ)文様軒丸瓦」は、阿武隈川流域の郡山市や角田市でも見つかっている。その一方、阿武隈川以北では確認されない。阿武隈川沿いに文化圏が形成されていたとみられる。

<「駅家」の可能性>
 徳川幕府の老中も務めた松平定信の居城だった白河藩の小峰城は、外堀に阿武隈川を利用する。伊達家や上杉家から関東を守る最後のとりでだ。白河の関と阿武隈川は古来、北と南の境界であり続けた。
 阿武隈川を下って岩沼市玉崎地区にある原遺跡が、緊急の通信や公用の旅行のために馬が置かれた平安時代の「駅家(うまや)」の可能性が高まっている。当時の法令集「延喜式」に「玉前駅家」の名があり、以前から存在が注目されていた。駅家と確認されれば東北初だ。
 出土品の円形すずりが傍証の一つで、文字を使う役人がいたことを示す。すずりは東海地方産とされる。会津若松市の大戸窯で作られた陶器も見つかった。これらの品は阿武隈川の水運で運ばれたと考えられる。
 岩沼市教委生涯学習課の川又隆央係長(47)は「広い道路や公共施設は国家権力を誇示し、地域を支配する上で視覚効果があった。原遺跡は東山道と浜街道、阿武隈川の水運が交わる岩沼の原型で、研究を深める」と意気込む。

[白河官衙遺跡群]関和久官衙遺跡が1984年に、借宿廃寺跡が2010年に国史跡に指定された。周辺の半径約2キロ以内に下総塚、谷地久保、野地久保の各古墳と豪族居館跡の舟田中道遺跡があり、国史跡に指定されている。


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2019年01月23日水曜日


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