福島のニュース

<阿武隈川物語>(26)奥州根差す政治演出

岩場が切り立つ霊山。顕家が陸奥国府を置き、巻き返しを図った
霊山神社所蔵の「北畠顕家」(荻生天泉作)

◎第5部 近代まで(4)南北朝動乱

 平安時代に山岳寺院が開かれた霊山(伊達市霊山町)は、険しい岩場に新緑や紅葉が映え、登山の楽しさが増す。
 東に太平洋や金華山、西に吾妻小富士や阿武隈川沿いの福島盆地。南奥州の一角を見渡す山頂付近に礎石が残る。南北朝時代、南朝の後醍醐天皇方の北畠顕家が拠点とした陸奥国司館跡だ。

<足利氏追い払う>
 顕家が霊山に国府を置いた1337年、南朝は敗色濃厚だった。ただ、前年の1次遠征では京都に攻め上り、足利尊氏を九州に追い払った。中央の支配を受け続けた奥州にとって、唯一の攻勢だ。顕家率いる奥州勢が強かったのはなぜか。
 東北の南北朝動乱に詳しい伊藤喜良福島大名誉教授(74)は、顕家が行政、軍事に奥州の国人を登用した点を挙げる。8人による陸奥国の最高合議体「式評定衆」に、伊達地方の伊達行朝、白河地方の結城宗広、親朝父子の3人を入れた。
 伊藤名誉教授は「植民地のようだった奥州に、自らの手による政治体制が築かれた。奥州の歴史にとって画期的だった」と強調し、「顕家の諫奏文は『中央で決めるのでなく、地方の住民と一緒に政治をしなければだめだ』との内容を含んでいる。奥州の現実を見抜いていた」と評価する。

<霊山神社を創建>
 霊山は、後醍醐天皇が逃れた吉野(奈良県)と修験のネットワークがあった。態勢立て直しを図る南朝にとり、地の利もあった。
 南朝の敗北でタブーとなった霊山だが、明治時代、南朝の正統性が認められて一転した。顕家を祭る霊山神社が1881年に創建された。顕家や楠木正成が忠臣として称揚された。
 「戦争で歴史観がゆがめられたのは残念だった」と嘆くのは、霊山町郷土史研究会副会長の菅野家弘さん(76)。日露戦争に出征した祖父が、顕家の1字を取って名付けたという。
 菅野さんは「戦前の愛国心高揚で霊山がクローズアップされたが、源泉は平安時代の霊山寺にある。地域にとっては、その歴史こそ大事にしたい」と語る。
 「神皇正統記」。顕家の父の親房が、北朝に傾く結城親朝らの説得のために執筆した。近年は後醍醐天皇への批判もうかがえるとの学説が主流だが、戦前は天皇に忠誠を求めるイデオロギーに利用された。
 白河市歴史民俗資料館学芸員の内野豊大さん(43)は「結城氏にとって最優先課題は、忠義より家と領地をどう守るか。それが武家のリアリズムだった」と指摘する。
 地に足の付かない政治の愚かさは、いつの時代も変わらない教訓だ。

[北畠顕家]1318〜38年。後醍醐天皇の「建武の新政」を支えた有力公家。33年に陸奥守として多賀城に赴任。1次遠征で足利尊氏を破った後、再び陸奥に赴き、37年に霊山に国府を置いた。2次遠征で和泉石津(大阪府)で戦死。専制的に振る舞う後醍醐天皇に諫奏文を上奏した。


関連ページ: 福島 文化・暮らし

2019年01月25日金曜日


先頭に戻る