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<没後70年 朝河貫一の問い掛け>(中)地元関係者に聞く/福島での18年間が原点

[ぬかざわ・しゅういち]本宮市出身。中大卒。福島テレビ報道制作局長、社長、会長を経て2018年顧問。朝河貫一の取材を継続。04年に朝河貫一博士顕彰協会を設立した。78歳。

 福島県二本松市出身で日本人初の米エール大教授となった朝河貫一(1873〜1948年)が亡くなって70年が経過した。世界的歴史学者で日米開戦回避に動いた平和主義者でもあった。ナショナリズムが台頭している現代に、朝河の業績や思想を見つめ直したい。研究者と地元関係者、次代を担う若者に聞いた。(郡山支局・岩崎かおり)

◎顕彰協会事務局長 糠沢修一氏

 二本松市出身の歴史学者朝河貫一は世界から日本を見つめ、日露戦争後の国際社会からの孤立を著書「日本の禍機(かき)」(1909年)で批判した。朝河貫一博士顕彰協会の糠沢修一事務局長は「福島で過ごした18年間が原点」と指摘する。



 <朝河は1873年、戊辰戦争を生き抜いた二本松藩士朝河正澄の長男として生まれた>
 正澄は文武両道に秀で、激戦の白河口の戦いに加わった。朝河の誕生後間もなく、小学校長として立子山村(現福島市)に家族で移り、村民教育に取り組んだ。夜に大酒を飲んで花札賭博をやる家庭が多かったが、みるみる減ったという。朝河は厳格な父の指導に応えようと努力した。
 <朝河は英語への関心が特に高かった>
 福島県尋常中学校(現安積高)で教師ハリファクスの指導を受け、260ページのポケット英英辞典を丸暗記した。暗記後は1枚ずつ食べるか破ったという。残った表紙を埋めたといわれる校庭に、今も残るソメイヨシノは『朝河桜』と呼ばれている。卒業式では見事な英語の答辞で周囲を驚かせた。

<大きい父の存在>
 <英語への興味を育む土壌が福島にあった?>
 福島県は養蚕が盛んで、国内有数の生糸産地だった。川俣町には生糸市場があり、英国、米国、オランダの貿易商が入っていた。朝河は通った川俣の高等小学校で英語を学んだ時期もある。生糸市場で英語社会に接する機会があった。
 <東京専門学校(現早稲田大)進学まで福島での18年間が与えた影響は?>
 父正澄の存在が大きい。旧式銃が中心の二本松藩や会津藩は戊辰戦争で、新型銃を備えた西軍に敗れた。痛感した欧米各国の科学技術の進歩を、朝河に教えていたことは間違いない。
 正澄は勉強のため「最低でも東京へ行け」と教えていた。朝河は「それでは足りない」と考えたのだろう。語学力を身に付けたことで「世界を見てみよう」と志を抱くようになった。
 <著書「日本の禍機」は日本の振る舞いを批判し、戦争へ突き進む未来に警鐘を鳴らした。著書については東京電力福島第1原発事故後、国会事故調査委員会の黒川清委員長(東大名誉教授)が最終報告書の序文で「日露戦争以後に『変われなかった』日本が進んで行くであろう道を、正確に予測していた」と触れた>

<現代に教訓残す>
 (変われなかった)姿を原発事故と当てはめている。東電は自家発電装置を水がかぶる可能性のある地下室に置き、海抜の高い場所への移動を勧めた専門家の忠告を聞かなかった。
 おごることなく人の話を聞き、うのみにせず分析する。かつ、謙虚であれ、と朝河は現代に教えている。歴史から学ぶ知識と研究能力、しっかりした視点と広い視野と眼力があれば『人災』といわれる原発事故は防げたのかもしれない。

[日本の禍機]朝河貫一の著書。日露戦争後の大義を欠いた軍部の台頭で世界から孤立する母国・日本を憂慮し、警鐘を鳴らした。日本語で遠く米国から日本の進むべき道を訴えた。


関連ページ: 福島 社会

2019年01月30日水曜日


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