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<奥羽の義 戊辰150年>(37)取り残された150人を斬首

石巻市湊の牧山から望む石巻湾。榎本艦隊に同行できなかった兵士たちは、湾を取り巻く山の中などに隠れたが、次々に捕まり処刑された。悲惨な歴史は「正史」には残らず、地元の人の口伝えに記憶された
江戸時代、東北最大の米の集積地として栄えた石巻。戊辰戦争で旧幕府軍の榎本艦隊が立ち寄ったが、かろうじて戦禍を免れ、明治以降は漁業で栄える

◎第6部 仙台藩降伏/艦隊出航後の悲劇

 1868(明治元)年旧暦10月12日、旧幕臣の榎本武揚、新選組副長の土方歳三、仙台藩額兵隊長の星恂太郎(じゅんたろう)ら2000人を乗せた艦隊は石巻の折浜から蝦夷地(北海道)へ向けて出航した。当時、石巻にいた旧幕府兵らは4300人。全員は乗せられず「不動の決心を有する誠忠の士」(戊辰役戦史)を選抜した。
 この後、乗船できなかった者を悲劇が襲う。追跡してきた新政府軍により150人が捕縛、斬首されたのだ。これほど大規模な処刑は戊辰戦争を通じても異例だが、新政府や仙台藩の記録には残っていない。目撃者の口伝で語り継がれてきた。
 元石巻市図書館長で郷土史家の故橋本晶氏は祖父から目撃談を聞いたという。石巻の生き字引と称された橋本氏の著書などによると、処刑は長浜(現在の石巻漁港周辺)であり、目抜き通りに首がさらされた。
 さらに裏付ける証言が2005年、歴史継承の市民団体「石巻千石船の会」(石巻市)の機関誌「ふるさとのかたりべ」に載った。市内の女性(匿名)が1944年に目撃者の高齢女性から聞いた話だという。
 話によると、路地を逃げ回る旧幕府兵が家の雨戸をたたき「入れてくれ」と請う。しかし、助けると後で責めを受けると恐れた住民は皆知らんぷり。山に逃げた兵たちは空腹や寒さに耐えかね、下山して捕まった。手向かおうにも刀や羽織は借金のかたに取られていたらしい。
 「処刑がある」というので長浜に見に行くと、兵たちはうなだれていた。斬首の時には「助けてくれ」と泣いた。暴れる者は取り押さえられ、やりで刺された。「威張って歩いていた兵が泣いて殺される姿は見ていられなかった」という。100人できかない数と振り返っている。
 これほどむごたらしい出来事が歴史に埋もれたのはなぜか。元石巻市教育長で郷土史家の阿部和夫さん(80)=同市芸術文化振興財団理事長=は「住民は旧幕府の関係者と思われて処罰されたり、逆に旧幕府兵から後で報復されたりするのを恐れて長年口をつぐんだ」と指摘する。
(文・酒井原雄平/写真・岩野一英)

[石巻の敗残兵]旧幕府軍の敗残兵らは石巻周辺の各集落や島に潜んだ。現地では民家に押し入って略奪したり、宿泊させるよう強要したりするなどの事件が相次いだ。仙台藩の統制を離れた脱走兵たちも地域の富豪や米穀船を襲い、軍資金と称して強制的に金品を差し出させた。東北三大地主の一人、前谷地の斎藤善右衛門は現在の貨幣価値だと1億数千万円に上る2200両を奪われた。仙台藩士二関源治の率いる脱走兵らの組織「見国隊」は徴発した軍資金で英国商船を雇い、石巻から箱館に渡って榎本武揚と合流。二関は1869年、箱館五稜郭の戦いで戦死した。


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2019年02月03日日曜日


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