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<奥羽の義 戊辰150年>(39)開拓志願 北の大地へ移住

伊達邦直らの移住第1陣は、奇岩がそそり立つ室蘭近辺の浜に上陸した。たどり着いた北の大地はまだ寒く、身が縮むような風が吹き付けていたという=北海道室蘭市のマスイチ浜
畑の中にひっそりと立つ伊達邦直上陸の碑。明治新政府から与えられた土地は石狩川河口から遠く、物資の輸送が困難だった。入植は結局、断念せざるを得なかった=北海道奈井江町

◎第7部 再起/領地激減

 1869年1月(旧暦明治元年12月)、戊辰戦争に敗れた仙台藩の領地は62万石から28万石へと大幅に削減された。現在の大崎市周辺に1万4600石を有した伊達家一門の岩出山領主、伊達邦直はわずか60石となった。
 これでは家臣を養えない。リストラすれば、家臣は帰農するか、岩出山を出て流浪するしかない。「支えてくれた家臣を見殺しにできない」。悩む邦直に一つの選択肢がもたらされた。北海道開拓移住である。
 新政府はロシア南下に対する警備と農地開拓のため、北海道への入植者を募っていた。「これなら士族の体面を保ったまま新たな領地を得られる」。邦直は同年秋、学問所「有備館」(大崎市)に家臣を集め、移住に応募する決意を伝えた。
 政府に出した嘆願書には「自費をもって開拓に当たり、前罪の万分の一でも償いたい」とある。「前罪」とは戊辰戦争のこと。東北大東北アジア研究センターの友田昌宏専門研究員は「家臣の生活維持に加え、国家事業の北海道開拓を成功させ、仙台藩に着せられた朝敵の汚名を返上する思いがあった」と解説する。
 新政府から最初に示された土地はナイ(現在の北海道奈井江町)。だが邦直自ら実地踏査すると物流が不便な内陸地と分かり、断念した。「土地に合う作物が見つかるまで漁業でも生計を立てられる沿海地にしたい」と再度要望し、聚富(しっぷ)(石狩市厚田区)開拓が許可された。
 その間「北海道に行くなら帰農する」と反対論も浮上し、家中は二つに割れた。邦直は「既に政府に願い出たこと。今更変更するのは恥」と、家を継がない次男以下のみ帰農を認める妥協案を示して鎮めた。が、一部には不満がくすぶった。
 とはいえ、武士であり続けられる魅力は何物にも代えがたい。そう捉える者は多く、71年3月23日、応募した移住第1陣の53戸181人が室蘭に上陸。200キロ先にある聚富を目指し、まだ雪の残る荒涼の大地を歩み出した。岩出山から現地到着まで1カ月余りの長い道のりだった。(文・酒井原雄平 写真・岩野一英)

[岩出山伊達家]1603年、仙台藩祖伊達政宗が居城を岩出山から仙台に移す際、四男宗泰に領地を譲ったのが始まり。藩内の家格は最上位の「一門」。現在の宮城県北に幅広い領地を有し、範囲は玉造、遠田、志田、栗原、黒川各郡に及んだ。
 伊達邦直 岩出山伊達家10代当主。通称英橘(えいきつ)。1835年9代当主義監(よしあき)の長男として誕生。81年北海道開拓の功績により従6位に叙せられた。91年北海道当別で死去。亘理伊達家を相続した邦成(くにしげ)は実弟。


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2019年02月17日日曜日


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