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<阿武隈川物語>(31)不毛の地で特攻訓練

米軍の空襲でできた爆弾池を見詰める藤田さん(右)=福島県矢吹町東郷
矢吹に降り立った海軍の報国福島号=1934年10月28日(矢吹町教委提供)

◎第6部 近現代(4)飛行場

<今も残る爆弾池>
 福島県矢吹町の広大な農地に、米軍の空襲でできた穴に水がたまった「爆弾池」がある。のどかな農村が爆撃を受けたのは、陸軍矢吹飛行場があったからだ。池はほとんどが埋め立てられたが、かつては無数にあり、爆弾の破片も見つかった。
 町文化財保護審議会長の藤田正雄さん(85)は「台地の矢吹は阿武隈川の水が使えなかった。不毛の原野が多かったため、飛行場が誘致された」と解説する。
 矢吹と飛行機の関わりは1928年、新聞社機が飛来したのが最初。第1次世界大戦で活躍した飛行機は新兵器として重視された。
 県が寄付を募って献納した陸軍の愛国福島号、海軍の報国福島号が次々と着陸した。着陸場所の草刈りをした有志や在郷軍人会が飛行場を誘致。37年に矢吹飛行場が開設された。
 終戦前は特攻隊の訓練が行われた。20歳前後の訓練生12人が45年4月5日に矢吹をたち、特攻隊の拠点の知覧飛行場(鹿児島県南九州市)へ。同22日、沖縄沖で全員が戦死した。
 知覧まで同乗した整備員に聞き取りをした藤田さんは「訓練は離陸だけで、着陸はどうでもよかったという」と語り継ぐ。
 飛行場整備の裏返しともいえる多くの痩せた土地。町内の阿武隈川沿いに住む農業浅川光一さん(94)の家は戦前、農地がなかった。父は石切り場で働き、石くずを担いで阿武隈川に捨てた。田植えや稲刈りを手伝う「手間取り」もした。
 浅川さんは製材工場で働き、44年に召集されて中国に行った。飯ごうを持った兵士は水筒がなく、水筒を持った兵士は飯ごうがなかった。「戦争だけはするものじゃない。戦争の大義を言う向きもあるが、侵略戦争以外の何物でもない」と振り返る。
 農地解放でやっと土地を手にした浅川さんは「昔は水がなくて大変だった。小作人が多くて餓死者も出た」としみじみ語る。

<水争い衝突寸前>
 近隣の水争いで知られるのが、冷害に見舞われた34年の「関平堰(せきひらせき)事件」。阿武隈川上流の白河市内に流域の農民が水を引くための堰を築こうとして、村々が衝突寸前になった。
 矢吹に隣接する石川町の三森和典さん(91)は子どもの頃、親たちがくわやおのを手に神社に集まったのを覚えている。
 矢吹を空襲した米軍機も目撃した三森さん。低空飛行の操縦士の顔が見えた。家が機銃掃射を受け、明治天皇の御真影が吹き飛んだ。
 三森さんは「水争いは農民にとって死活問題。話し合いで解決することが大事で、その点では戦争も同じだ」と戒める。

[陸軍矢吹飛行場]現在の矢吹町役場周辺に整備され、東西1500メートル、南北600メートルの滑走路2本があった。陸軍熊谷飛行学校矢吹分校が置かれ、80〜100人の兵員がいたとされる。45年4〜8月に米軍の空襲が約10回あった。


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2019年02月17日日曜日


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