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<阿武隈川物語>(35)花を持たせる東北人

冬の季語になっている牡丹焚火=2018年11月、須賀川牡丹園
芭蕉が句を詠んだ乙字ケ滝

◎第7部 文学(2)俳人

 みちのくの入り口の阿武隈川沿いは古来、歌や俳句、詩の題材として親しまれた。時に人生にもたとえられる川の流れは、詩情をかき立てる。豊かな文学を育んできた流域を散策した。(角田支局・会田正宣)

 牡丹(ぼたん)は花をめでるだけではなかった。
 折れた枝や古木を供養する須賀川市の「牡丹焚火」は、冬の季語になっている。大正時代、須賀川牡丹園を訪れた俳人原石鼎(はらせきてい)を、園主の柳沼源太郎が牡丹をくべてもてなした。
 牡丹焚火の会場で句会も催す。主催する「桔槹吟社(きっこうぎんしゃ)」は国内屈指の結社で、原が柳沼たちに提案して1922年に発足した。

<3巻の連句作る>
 俳句のまち須賀川の源は松尾芭蕉にある。「とかくして(白河の関を)越行くままに、あふくま川を渡る」(おくのほそ道)。みちのく入りした芭蕉が訪ねたのが、同門の先輩格だった須賀川の俳人相楽等躬(さがらとうきゅう)だ。
 等躬は芭蕉にみちのくで初めて詠んだ句を尋ねた。
 <風流の初やおくの田植えうた>
 芭蕉の句を発句に、曽良と3人で3巻の連句を作った。須賀川滞在は8日に及び、最後に阿武隈川の乙字ケ滝を訪れた。
 <五月雨の滝降りうづむ水かさ哉>
 等躬は江戸への物資を扱う総合商社を営んだ。須賀川は有数の商業都市。白河藩領だったが、自治が認められていた。自治都市は当時、須賀川と堺(大阪府)だけだった。
 須賀川市のまちづくりNPO法人「チャチャチャ21」の高久田稔理事長(80)は「経済界トップの等躬は懐の深い人物だった。俳諧のたしなみは人脈を広げ、商売や人物観察に役立っただろう」と想像する。

<「伝統しみじみ」>
 NPO法人は2018年、芭蕉ゆかりの市内10カ所に道しるべを設置。芭蕉が歩いた道をたどる会も開いた。
 「等躬から続く伝統をしみじみ感じる」と語るのは桔槹吟社副会長の江藤文子さん(71)。17年の福島県文学賞を受けた。須賀川は等躬以後、小林一茶と交流があった女流俳人市原多代女(たよじょ)などを輩出した。
 江藤さんは約15年前から市内の小学校で俳句を指導。吟社の月刊の俳誌で、子どもの投句コーナーを編集する。「地域の文化を後世に伝えたい」と張り切る。
 三十六歌仙で、和紙を折った初折りの裏の11句目を「花の定座」という。客人にここを詠ませるのが「花を持たせる」の語源だ。
 市芭蕉記念館専門員の高橋亜純さん(50)は「等躬の号は身分に関係なく俳諧を楽しむ思いを込めた。人を立て、寄り添うもてなしをする等躬が、みちのくの玄関口で芭蕉を迎えたことは意義深い」と語る。
 人に花を持たせる東北人の立ち居振る舞いは、時代が移っても変わらない。

[相楽等躬]1638〜1715年。白河藩須賀川代官に連なる家系に生まれ、問屋を経営。現在の市長に相当する駅長職にもあったとされる。俳諧中興の祖である松永貞徳の門人に師事、松尾芭蕉と同門になる。奥羽俳壇の中心だったいわき市の岩城平藩主内藤風虎らと親交があった。


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2019年03月14日木曜日


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