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<奥羽の義 戊辰150年>(42)寛大な処分に庄内藩感服

米取引所の付属施設として造られた山居倉庫。今も現役の貯蔵施設として利用されている。西郷隆盛の教えに従って築かれた有形無形の「遺産」は、庄内の地にしっかりと根付いた=酒田市山居町
南洲神社にある座像「徳の交わり」。腕を組んだ西郷に、菅は折り目正しく正座で対している。鹿児島の西郷の屋敷で、二人が兄弟のように親しんだという逸話を基に作られた=酒田市飯森山

◎第7部 再起/西郷隆盛の温情

 戊辰戦争後、庄内藩に下された処分は17万石から12万石への減封だった。62万石から28万石になった仙台藩や、23万石から実質7000石の斗南藩に移封された会津藩との違いが際立った。
 厳しい処分を覚悟していた庄内藩首脳は、後に薩摩藩の西郷隆盛の指示だと知る。温情に感服した藩主酒井忠篤(ただずみ)は1870(明治3)年、藩士と共に鹿児島を訪れ、それを機に西郷に教えを請うようになった。
 中でも重臣菅実秀(すげさねひで)は西郷と兄弟のように親しみ、国の行く末を論じ合った。西郷の助言に従い、菅らは山居倉庫や第六十七銀行(現在の荘内銀行)を設立。松ケ岡(鶴岡市)を開墾して養蚕事業も始めるなど、産業振興に邁進(まいしん)した。
 89年、西南戦争で負った西郷の賊名が明治憲法発布に伴う恩赦で解かれると、菅らは「今こそ西郷の『敬天愛人』の精神を後世に示す時」と遺訓編集を指示。翌年「南洲翁(なんしゅうおう)遺訓」を刊行した。南洲は西郷の雅号。旧庄内藩士は本を風呂敷に包んで背負い、全国を行脚して広めた。
 酒田市には西郷と菅をまつる南洲神社があり、公益財団法人「荘内南洲会」(会員約450人)が遺訓を学ぶ講座を毎月開いている。同会は遺訓の冊子を無料配付しており、累計は10万冊に及ぶという。先日はクラウドファンディングを活用して増刷資金を募った。
 水野貞吉理事長(85)は「全国の大勢の方が今も遺訓に関心を持ち、協力してくれてうれしい」と話す。
 西郷が庄内藩に対して寛大だった理由はよく分かっていない。負け知らずと言われた手ごわい相手を再び敵に回したくなかった、薩摩藩邸焼き打ちを口実に同藩が朝敵とされたのを気にした、など諸説ある。
 敵同士が一転、深く信頼し合う不思議な縁。東京・上野公園にある西郷の銅像の建立には忠篤が発起人に名を連ねるなど庄内の人が多数協力した。鶴岡、鹿児島両市は戦争終結から100年後の1969年、兄弟都市となった。「許す」という行為の奥深さを感じずにいられない。(文・酒井原雄平 写真・岩野一英)

[南洲翁遺訓]序文、遺訓43章、後書きからなり、内容は政治経済、外交、生き方など多岐にわたる。「人を相手にせず天を相手にせよ」「児孫のために美田を買わず」などの一節が有名。西郷隆盛は「自分がもし言葉に反する行動をしたら、言行不一致の男だと、それきり見限ってほしい」と語ったとされる。

[菅実秀]1830年、庄内藩中級藩士の家に生まれる。63年、同藩の任務だった江戸市中取締役の一員として江戸の警備に当たる。郡奉行、藩主側用人を経て中老。戊辰戦争では軍責任者の軍事掛だった。廃藩置県後に酒田県権大参事。1903年死去。


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2019年03月17日日曜日


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