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<奥羽の義 戊辰150年>(43)鬼官兵衛 阿蘇山麓に散る

西南戦争の激戦地に向かった日の朝、佐川官兵衛が湧き水でのどを潤したと伝わる明神池。援軍を出してくれた村人に「敵の首を土産にする」と誓い、生涯最後の戦いに臨んだという=熊本県南阿蘇村
「火の国」熊本の阿蘇連山。戊辰戦争で「鬼官兵衛」と恐れられた武人がこの山裾で生涯を終え、会津の魂ははるか九州の地でも語り継がれている=熊本県南阿蘇村

◎第7部 再起/西南戦争

 1877(明治10)年2月、政府に不満を持つ旧薩摩藩の士族が西郷隆盛を擁して挙兵し、西南戦争が勃発した。会津藩元家老佐川官兵衛は政府軍を率いて激戦地熊本へ赴く。戊辰戦争で「鬼官兵衛」の異名を取った武闘派は覚悟を秘めていた。
 佐川は74年、彼の勇猛ぶりを知る初代警視総監川路利良(薩摩藩出身)に招かれ、警視庁一等大警部に就いた。会津藩を情け容赦なく打ちのめした政府に加担するのは意外に思えるが、当時、旧会津藩士の多くは生計を失い困窮しており、佐川は救済のため藩士300人を連れて奉職したと言われる。月給の一部は旧主松平家に送った。
 出兵命令を受け、佐川は大分経由で阿蘇白水地区(現在の熊本県南阿蘇村)に布陣。現地では部下の略奪行為を禁じて不祥事を一切起こさず尊敬された。村人は親しみを込めて「鬼さま」と呼んだという。村内には彼の記念碑や顕彰碑が18もある。
 ただ彼の再三の要請により出撃許可が下りたのは、既に薩摩軍が要所の峠を占拠した後で、勝機はなかった。それでも佐川は出発。直前に湧き水の明神池(南阿蘇村吉田)で身を清め、辞世をしたためる。
 <君がため都(みやこ)の空を打ちいでて阿蘇山麓に身は露(つゆ)となる>
 3月18日、佐川は敵隊長と刀での一騎打ちの最中、やぶに潜んだ農兵に撃たれて死んだ。45歳だった。
 現在、明神池の隣には「鬼官兵衛記念館」がある。地元住民の興梠二雄さん(90)が私費を投じて1992年に開館した。資料400点を展示する。戦没地(同村河陽)の石碑が熊本地震で倒壊し、2017年には新たな顕彰碑と胸像が明神池のそばに建った。
 「佐川は戊辰の雪辱を果たそうと懸命に戦った。会津藩の名誉回復への思いが人一倍あった」と興梠さん。「『君がため』は天皇、元藩主の両方を指すと私には思えます」
 「官軍」として殉職すること。佐川の取った行動は、会津藩が着せられた朝敵の汚名を返上する究極の手段だったと言えるかもしれない。

[西南戦争と旧奥羽諸藩]佐川官兵衛のほかには会津藩元家老山川浩が政府軍として西南戦争に参加。薩摩軍に包囲された熊本城の救援に駆け付け窮地を救った。戊辰戦争で夜襲部隊「からす組」を率いた元仙台藩士細谷十太夫も陸軍小隊長として参戦した。一方、戊辰戦争後に西郷隆盛と急接近した旧庄内藩中枢は静観したが、西郷の私塾で学んでいた若手藩士2人が薩摩軍に加勢し戦死した。旧仙台藩中枢は旧庄内藩が薩摩軍と呼応しないかを警戒、援軍を送ろうとした場合は阻止する構えを取った。


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2019年03月24日日曜日


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