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<奥羽の義 戊辰150年>(44完)足元の史実を学び、未来へ

戊辰戦争で落城する悲劇に見舞われた霞ケ城(二本松市)。城跡の桜が早春の空に向かってつぼみを膨らませる。戊辰戦争が終わっても東北はいわれなき汚名を受け続けたが、人々は苦難を乗り越えてきた。冬を耐えて咲く花々のように

 戊辰戦争で会津、庄内両藩は新政府から「朝敵」とされた。降伏することさえ許されなかった。連載の取材で古文書や市史、町史などの文献に当たり、郷土史家らの話を聞くうちに、そうした扱いが一方的で理不尽なものであるという思いを強くした。
 戊辰戦争は一般に「新政府対旧幕府」の図式で捉えられる。だが東北での一連の戦いは、旧幕府体制に時計の針を戻すのが目的ではない。
 会津、庄内両藩を追討させようと強引に出兵を迫る新政府に対し、奥羽諸藩は決然と「ノー」を表明した。横車を押す者への異議申し立てである。奥羽越列藩同盟は盟約書に「集議」を掲げ、武力を前面に出す新政府に対し、広く公論で決するよう世に問うた。
 一方で戊辰戦争は、高い理念を掲げても、力が伴わなければ敗れ去るという厳しい現実を突き付けた。兵器、戦術に優れた新政府軍に対し、旧式銃が主体の列藩同盟軍は実戦で常に劣勢に立たされた。
 当初は平和同盟だった列藩同盟が、仙台藩による長州藩士世良修蔵の暗殺を境に軍事同盟へと変質して戦争へ突き進むなど、奥羽諸藩が最後の最後で平和解決を自ら放棄してしまった側面もあった。
 冷淡な見方をすれば、同盟を主導した仙台藩や米沢藩などは時流を読めないまま他人のけんかに加わり、争いを拡大させた上、敗れたと言えるかもしれない。
 だが新政府と一緒に会津藩や庄内藩をたたけば正解だったかといえば違うだろう。曲がりなりにも列藩同盟として奥羽諸藩が史上初めて一つにまとまった経験があるからこそ、東北が現代まで一体感を保つ素地が生まれたように思える。
 150年後の今、歴史の再評価が進む。雑誌「歴史街道」(PHP研究所)の今年1月号の読者アンケートでは、応援したい幕末の藩は会津藩が1位。仙台、庄内藩ともに8位で上位だった。薩長土肥ばかりが注目される時代ではもはやない。奥羽諸藩が掲げた大義は長い時を経て共感を広げている。敗れても残るものはある。
 日本は先進国となった。東北は「賊軍」とさげすまれ開発が遅れたとされるが、先人は屈辱をばねに、時に北へと流浪しながら新しい時代を切り開いた。先人が命懸けで戦い、守った地で、今を生きる人々が東日本大震災からの復興に取り組む。
 各地の戦没者慰霊祭などが参列者の高齢化により途絶え始めたという。歴史の継承が難しくなってきている。150年は遠いようで近く、近いようで遠い。
 戊辰戦争は東北が舞台の身近な歴史でありながら、知っているようで知らない。連載で紹介しきれなかった各地の逸話はまだある。それぞれが興味を持って調べてほしい。足元の史実を知ることが、歴史継承につながる。取材を通じて一から戊辰戦争を学び直した身として、そう感じている。(文・酒井原雄平 写真・鹿野智裕)


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2019年03月31日日曜日


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