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<奥羽の義>番外編・列藩同盟群像(1)多くの伝説 型破りな生涯

3本足のカラスが大きく刺しゅうされた細谷十太夫の陣羽織。破天荒な戦いぶりで伝説を残した男は装いも派手だ=多賀城市の東北歴史博物館
仏門に入り、鴉仙と名を改めた後の細谷十太夫(仙台市戦災復興記念館所蔵)

◎仙台藩「からす組」隊長 細谷十太夫

 幕末期、新政府に対抗するため奥羽越列藩同盟を結んだ東北の各藩では、才能と個性にあふれた藩士が多く活躍した。彼らはいずれも、維新の英雄と称される薩長土肥の志士に負けず劣らず魅力的だ。代表的な5人を番外編として紹介する。

 ゲリラ部隊「からす組」を率いて30余戦無敗。新政府軍に恐れられた仙台藩士細谷十太夫の生涯は、多くの伝説に彩られている。
 下級武士の家に生まれ、両親が早くに他界。寺に預けられ貧困下で育った。出世の登竜門である藩校養賢堂で学んでいない。非エリートの「雑草」である。
 御所警備員として赴任した京都では、芝居小屋で暴れる不祥事を起こして仙台に戻された。演目が仙台藩をばかにする内容だと腹を立てたらしい。郷土愛は強かったようだ。
 戊辰戦争勃発後、探索方(諜報(ちょうほう)活動)に従事し、侠客(きょうかく)や博徒と人脈を築いたことが転機となる。白河で大敗した仙台藩のふがいなさを嘆いた細谷は、彼らを集めて「衝撃隊」を結成。夜襲を仕掛けて新政府軍に勝利を重ねた。隊員が黒装束だったため、からす組の異名が付いた。
 新式銃で武装する新政府軍にからす組が刀槍(とうそう)で挑めたのは、命知らずの雑草軍団だからこそだ。
 1951年から石巻市長を1期務めた故清野源助氏は少年時代に細谷と会ったことがあるとかつて語っている。細谷は右手のひらの傷を見せて「この傷は敵の弾を防いで付いた。戦争が起きたら、お前たちも手で弾を受けろ」と話し、幼心に「すごい人だ」と感じたという。
 東北歴史博物館(多賀城市)は細谷の陣羽織(復元品)を展示している。金糸をふんだんに使い、背中に3本足のカラスを刺しゅうした派手なものだ。実際にカラスを連れ歩いたとさえ伝わる。
 藩降伏後、細谷が戦犯として捕縛されかける場面が石巻市史にある。滞在先で細谷の飼うカラスが突然死んだ。「何かの前兆か」と不安がる隊士に、細谷は「役人がおれの首を狙いに来るんだろう」と余裕の笑みを浮かべた。直後に屋敷が追っ手に取り囲まれると、細谷は隊士に1000両を分け与え、隊を解散して姿を消したという。
 明治以降も何かと忙しい。生計を失った藩士の失業対策に取り組み、石巻大街道の開拓、四ツ谷用水の改修工事などに携わった。宮城集治監(現宮城刑務所)の建築委員にも名を連ねるなど、宮城県の近代化に少なからず関わっている。
 明治三陸大津波(1896年)の直後には、作業員102人を率いて被災地入りしたと当時の新聞にある。短期間で人を集め束ねる手腕は幅広い人脈ならではだろう。
 晩年は戦死した同僚を弔おうと出家。龍雲院(仙台市青葉区)の住職となり、荒廃していた寺の再興に尽くした。敬愛する仙台藩士林子平が眠る寺だ。傑出した存在から「寛政の三奇人」の一人に称された林と、細谷。2人には相通じる何かがあったのか。名前は鴉仙(あせん)と改めた。ここでもカラスだ。
 細谷の三男は榎本武揚の艦隊の幹部だった小杉雅之進の養子となり小杉辰三を名乗り、1905年、神戸製鋼所の創設に関わった。18年に龍雲院へ匿名で2万円を寄付。親子2代の尽力で寺は翌年再建された。
 寺には細谷の座像や墓がある。「負け知らずの細谷にあやかろうと、選挙の立候補者や受験生らが参拝に来る」と寺は説明する。
 とどまることなく行動し続けた細谷。もはや史実と伝説が区別できないほど型破りな生涯は、今も人を引きつけてやまない。

 細谷十太夫は1901(明治34)年1月1日の河北新報に「侠友倶楽部(くらぶ)」代表として謹賀新年のあいさつ広告を出している。侠友倶楽部がどのような組織かは不明だが、おそらく渡世人らの親睦団体ではなかろうか。所在地は仙台市元柳町(現在の大町2丁目と桜ケ岡公園、立町)となっている。博徒や侠客を集めてからす組を結成した細谷が、こうした人々との関係を後年も大事にしたことが垣間見えて興味深い。明治以降、開拓事業や土木工事、津波被災地の復興に精力的に取り組めたのも、幅広い人脈あってこそと言えそうだ。

(文・酒井原雄平 写真・岩野一英)

1840年 仙台藩下級武士の家に誕生(45年説も)
  64年 京都に赴任。芝居小屋で暴れる不祥事を起こし仙台に戻される
  67年 石巻鋳銭場役人となる
  68年 戊辰戦争勃発。探索方を命じられる
  旧暦 5月 博徒・侠客らを集めて「衝撃隊」結成
  旧暦10月 石巻で一度捕縛されるが釈放
  69年 色麻に移住。王城寺原を開拓
  77年 西南戦争に陸軍小隊長として参戦
  78年 宮城県集治監建築委員。四ツ谷用水改修工事監督
  80年 石巻大街道開拓
  82年 北海道幕別入植
  94年 日清戦争に千人隊長として従軍
  96年 明治三陸大津波。102人を率いて被災地入り
1903年 仏門に入り龍雲院住職
  07年 仙台で死去


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2019年04月07日日曜日


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