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<私の平成 聞き語り>(3)震災経た交流が財産に/宮城県漁協女性部連絡協議会会長・江刺みゆきさん

 平成は、どんな時代だったのか。平和運動、偏見・差別との闘い、漁業、農業、観光に携わった県内の5人に自身の活動を踏まえ、この30年を振り返ってもらった。(5回続き)

◎宮城県漁協女性部連絡協議会会長 江刺みゆきさん(77)=石巻市荻浜

 県漁協女性部の会長職を石巻地区、中部地区、県と順番にやってきた。石巻地区の女性部長になったのは平成に入ってすぐだった。

<救命衣着用訴え>
 一番印象に残っているのは、漁業者の救命胴衣の着用を呼び掛けたこと。漁船事故がきっかけ。雄勝町東部支所の活動が発祥だった。女性部員が各浜で一軒一軒歩いて回り、着用の必要性を訴えた。
 当初は「着ると邪魔だ」「仕事できねえ」と言われたこともあったけれど、石巻海上保安署の協力もあって今の着用率はほぼ100%になった。石巻発の活動が全国に広がった。本当に素晴らしいこと。漁船事故が起こってからでは遅い。
 荻浜集落はカキ養殖一本だ。私も元々カキをやっていた。若い頃は夫と船にも乗ったが、今は息子と孫がやっている。昭和の人はとにかく毎日、海に出て働いていた。平成に入り、今の人はある程度働いたら休んだり、遊びに行ったり。余裕がある。その割に収入もよくなってきているから、やり方が上手なんだろう。設備の進歩というよりは意識の変化だと感じている。
 昔の漁業者は飲んべえが多く、お酒を飲み始めれば何日もという感じだった。平成の人は時間を決めて飲んでいる印象だ。

<浜の風景が一変>
 東日本大震災の時は脳ドックで仙台市の病院に行っていた。他の家族5人は学校にいた孫2人以外、駄目かもしれないと覚悟した。発生から4日目に連絡が取れて安心した。集落では男性2人が亡くなった。
 震災で浜は大きく変わった。漁業をしていない人はほとんど出て行った。女性部の人数も震災前は県内で2500人ほどいたが、今は1100人ぐらいに減った。漁業をやめた人もいる。
 震災は大変だったけれど、震災をきっかけに全国の人と出会え、今でも交流を続けられたことはとても良かったと思う。
 仮設住宅暮らしだったとき、食事を提供してくれた愛知県の学生ボランティアが今も荻浜に来てくれる。秋の祭りに合わせて来て、神社の草取りをしてくれる。ボランティアで来てくれ、仲良くなった人とは親戚や友達のような付き合いをしている。
 元々、人との交流が好き。昭和も平成も自宅に来るお客さんは絶えなかった。それでも、震災前までは地元だけの暮らしだった。今は外部との交流が生まれ、世の中が広くなったような気がする。(聞き手は石巻総局・氏家清志)


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2019年04月27日土曜日


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