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<私の平成 聞き語り>(4)受託農地が増え法人化/アグリ東北社長・田中学さん

田中学さん

 平成は、どんな時代だったのか。平和運動、偏見・差別との闘い、漁業、農業、観光に携わった県内の5人に自身の活動を踏まえ、この30年を振り返ってもらった。(5回続き)

◎アグリ東北社長・田中学さん(68)=栗原市金成

 栗原市金成で、社員8人の農業生産法人を経営している。124ヘクタールの農地でコメと大豆を作り、リンゴとブドウも育てている。

<世代交代進まず>
 平成の30年は農業のスタイルが大きく変わった時代だった。兼業の家族経営で自己完結していたコメ作りは、世代交代を進められない農家が増え、専業農家に委託するように変わっていった。
 平成4(1992)年に妻の久美子をがんで亡くした。妻はまだ36歳だった。3人の子どもを農業だけでは食べさせられず、仙台まで建築作業の仕事に通った。
 その頃、コメの作業委託が増えてきた。依頼するのは役場職員や後継者のいない農家。2年後、農業一本でいこうと決め、仙台での仕事を辞めた。
 平成17(2005)年には耕作面積が17ヘクタールになり、1人では仕事が回らなくなった。近所に住む現専務の鈴木勲夫さん(61)を雇った。私が現場、専務が会計と役割分担した。
 作業委託は右肩上がりで増えた。多い年は10ヘクタール増えた。中には、条件の悪い小さな田んぼもあった。自分の生まれ育った場所が荒れていくのが忍びなく、依頼された土地は全部引き受けた。
 昨年は地域の約130人の農地を手掛けた。かつては、ぽつりぽつりあった受託農地がみんなつながってしまった。

<冷害がササ直撃>
 平成25(2013)年に法人化した。国の制度や融資を使いやすくするためだった。国が生産調整(減反)の廃止方針を打ち出した年で、各地でコメが余った時だった。
 その影響で翌年、米価が60キロ当たり4000円も暴落して経営は赤字になった。助けられたのは、ずっと続けていた転作大豆だった。転作の交付金のおかげで持ちこたえられた。
 平成5(1993)年の大凶作は印象的な出来事だった。まだササニシキが主流で、10アール当たりの収量が平地は180〜240キロ、山間部は全く取れなかった。農業が自然相手の仕事だと改めて思った。
 私はひとめぼれを作付けしていたので、冷害の影響はあまり受けなかった。地元の採種組合が困っていたので、種もみとして提供した。
 20代から40代の社員が6人いる。みんな地元出身だ。機械操作はすぐ覚えるが、稲を育てる技術はまだまだ。この地域の担い手として、一人前になってもらいたい。
(聞き手は栗原支局・門田一徳)


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2019年04月28日日曜日


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