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<奥羽の義>番外編・列藩同盟群像(3)幕末に渡米 近代を先取り

玉虫が乗船した米軍艦ポーハタン号の模型を前に、遣米使節について語る村上さん
画家の庄子勇が描いた玉虫左太夫の肖像。1918年にあった50年忌法要で祭壇に掲げられた(仙台市博物館所蔵)

◎仙台藩士 玉虫左太夫

 奥羽越列藩同盟の中枢で活躍した仙台藩士玉虫左太夫は、幕末に幕府使節の一員として渡米、大西洋を渡って世界一周した。列藩同盟の盟約書には、米国の共和制を意識した理念が反映されたと言われる。柔軟に近代を先取りした姿勢は「東の坂本龍馬」とも称される。
 なかなかの苦労人だ。幼少から学問に秀でて藩校養賢堂に入り、蘭学者大槻磐渓にも学んだが、末子のため他家の婿養子になった。このまま無為に過ごしたくないと、妻の病死を機に24歳で脱藩して江戸へ出奔し玉虫姓に戻った。
 江戸でマッサージ師として働く傍ら、幕府大学頭・林復斎の屋敷に奉公する機会を得た。漢詩を吟じながら庭掃除をする作戦で林の目に留まり、門下生となった。すぐに頭角を現して塾頭に。脱藩の身ながら仙台藩の江戸学問所にも勤め、富田鉄之助(第2代日銀総裁)、高橋是清(第20代首相)ら江戸で学ぶ若手藩士に影響を与えた。
 その頃、幕府の蝦夷(えぞ)地探索団にも選ばれ、現地の気候風土や衣食住を「入北記」に克明に著した。仙台市史によると、アイヌ民族が地元の役人に虐げられる姿を哀れむなど、偏見のない観察眼が既に表れている。

 1860年、日米修好通商条約を批准する幕府使節団の一員に選ばれ米軍艦ポーハタン号(2400トン)でワシントンへ。仙台藩士にも復帰した。ただ、乗船は一従者の立場で、正使とは別の粗末な船室に押し込められた。随行した咸臨丸には勝海舟や福沢諭吉がいた。
 玉虫は最初、上下関係を気にしない米水兵を「儒教心がない」と低く見ていた。しかし、彼らが嵐の中でも任務を遂行し、余暇には読書に励む姿に感銘を受ける。一方、幕府正使の中には主体的に動かず「食事が少ない」と文句ばかりの人も。この差は何か。徐々に英語を覚えた玉虫は日米社会の違いを考察しだす。

 米上陸後は蒸気機関車の技術に驚き、女性が学問する姿に刺激を受けた。出自を問わず大統領になれる米国に対して、努力よりも身分が優先される日本。玉虫は見聞きした全てを「航米日録」全8巻にまとめた。ただし本音を記した第8巻は非公表とした。封建制度批判と危険視されるのを懸念したとみられる。
 帰国後は養賢堂の指南統取となるが、戊辰戦争が勃発。会津藩に降伏を促す使者に任命された。奥羽諸藩との調整役としても奔走し、列藩同盟の設立、運営に深く関わった。郡山市の歴史作家星亮一さんは、列藩同盟の盟約書には玉虫の思想が反映されたと著書で指摘する。確かに「物事は衆議公論で決める」「みだりに農民を労役させない」などの規定は公正、弱者への配慮を重視する画期的なもので、米国、蝦夷地での体験が凝縮されたかのようだ。

 立会人として玉虫と共にポーハタン号に乗った幕臣小栗忠順(ただまさ)の暮らした東善寺(群馬県高崎市)は、遣米使節の資料を多く所蔵する。大崎市の帆船模型作家岡崎英幸さん(88)が作製した同船の模型も展示。使節の研究者でもある住職村上泰賢さん(77)は、玉虫を「才能は随一。克明な記録力、柔軟な発想は学者やジャーナリストに近い」と評価する。
 仙台藩降伏後、玉虫は志津川(宮城県南三陸町)で戦犯として捕らえられ、切腹となった。才能を明治の世には生かせなかったが、間近で学んだ富田、高橋らが志を継ぎ、大正、昭和と日本のかじ取りを担っていく。
(文と写真・酒井原雄平)

< 仙台市博物館は常設展「玉虫左太夫と若生文十郎」を開催中。6月23日まで。>

1823年 仙台藩中級藩士の家に生まれる
  35年 他家の婿養子となる
  46年 脱藩し江戸へ出奔。幕府大学頭・林復斎の門に入る
  54年 仙台藩の江戸学問所に移る
  57年 箱館奉行に付き従い蝦夷地探索。「入北記」を著す
  60年 仙台藩士に復帰。日米修好通商条約批准の幕府使節の一員として渡米。その後、大西洋を渡り世界一周して帰国
  61年 「航米日録」を仙台藩主に献上
  65年 気仙沼に製塩所を建設
  66年 藩校養賢堂の指南統取となる
  68年旧暦1月 戊辰戦争勃発。奥羽越列藩同盟の軍務局議事応接統取に就く
    同9月 仙台藩降伏
    同10月 志津川で捕縛、仙台に護送
  69年 獄前で切腹、死去

<メモ>玉虫左太夫はビールを飲んだ記録を残した最初の日本人とされる。「航米日録」によると、1860年旧暦2月3日、米国へ向かう洋上で米初代大統領ワシントンの誕生日を記念する宴席があり、米士官や幕府正使に振る舞われた。従者の立場だった玉虫は宴席に出ていないが、船員が差し入れてくれたらしい。感想を「苦味なれども口を湿するに足る」と記し、酒好きの玉虫には好印象だったようだ。一方、ハンバーグなどとおぼしき「肉まんじゅう、焼き鳥」は「臭気が鼻を突き」口に合わなかった。ビールのエピソードはキリンのホームページでも紹介している。


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2019年04月28日日曜日


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